『中央公論』のケータイ特集


今月(4月号)の『中央公論』が「ケータイ文化は退廃堕落社会の予兆か」という特集を組んでいる。
といっても、武田徹氏と小原信氏の2編だけによるものだが。
しかし、その特集タイトルの下に編集部がつけた文句がちょっとひどい。

いまやケータイ人口は五千万といわれる。だが、その用途は「ケータイ共同体」内部のやりとりが大半という。対面型コミュニケーションを失い、簡便で気軽な通話やメールでわずかなぬくもりを確認しあう「共同体」の登場は、基本的な人間関係の崩壊を示唆している

武田氏の論調はむしろ逆で、「人間関係の表層化・希薄化を生み出すと指摘されることがあるが、メールのやりとりを頻繁にする者ほど実は相手と密に会う、という意外な調査結果がある」とも紹介しているのに。


武田徹「ケータイを敵視する“メディア一世”たちの傲慢」は、メディア一世/二世という世代区分を便宜的におこない、大人(一世)から若者(二世)に向けられた非難を反批判する。
『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』(PHP研究所、2002年)の1章前半を、その反批判ために組み直した感じのもの。
「注意深く観察していればすぐに気がつくが、電車の車内で声高にケータイで話をしているのは若者より大人のほうが多い」(p.163)。
にも関わらず、大人が若者を非難するのは「情報弱者」の大人たちの嫉妬であり、「これを若者のマナーレベル、あるいは若者の退行化に置き換えて攻撃した」だけじゃないか(p.160)。
要は、ありがちな世代間の認識のズレ、ジェネレーションギャップにすぎないんじゃないか。
まあ、割と素朴な反批判ではあるが、若者を否定的にみるばかりでなく肯定的にもみよう(むろん肯定的一辺倒でもなく)とするバランス感覚は優れている。
さて、メディア一世とは次のような世代だ。

ブラウン管の向こうでみのもんたは視聴者にメッセージを発しているが、一方通行であり、視聴者の反応を前提とした会話をするわけではない。…発信者主導のコミュニケーションである。しかし視聴者の側は発信者主導の会話とは気づかず、これは自分個人に語りかけているのではと錯覚し、対面型のコミュニケーションではないかと幻想する。……。
メディア受容史の区分で言うと、こうした錯覚を起こす世代――年代的には五十〜六十歳ぐらい。今上天皇ご結婚パレードを少年少女時代にテレビで見るなど、テレビを比較的早く日常的に取り込んだ層である――を“メディア一世”と呼ぶことがある。メディア一世はメディア経由のコミュニケーションの影響を強く受け、対面型コミュニケーションの訓練を十分に積まずに大人になった年代と解釈してもいい。……。
このメディア一世の世代では、…子供と対面していながらその表情を読みとれず、発信者側からのメッセージの提出に終始する。「あんた、どうしてこの問題ができないの。しようがないわねえ」と疑問型で問題提起をし、説明を求め、結局回答も自分で用意してしまう。

(p.162)


テレビを見て育つと、対面コミュニケーションの訓練が積めず、発信者主導型コミュニケーションになる、っつうのは、ちょっとトンデモなメディア強力効果説・技術決定論だが、まあここでは大人(メディア一世)に自己反省をうながすカウンターパンチとだけ解釈しておこう。
一方、

…メディア二世は「ケータイ共同体」の仲間に向かっては「いまいい?」「いまどこ?」「いま何してる?」から会話を始める。あらかじめメールを送って「いま電話していいか?」と確認してから電話をかけるケースが多いという。つまり、つねに自分の電話が相手にとって迷惑にならないように気遣いするのだ。……。メディア一世と異なり相手やその周囲のことを考えて、負担にならぬよう驚くべき礼儀正しさで気遣いしながら手探りをしている。
…二世は一世たちのメディア型コミュニケーションモデルの問題点を克服しようとしているのだろうか。とすれば、二世たちのケータイ利用の方法は一世たちの錯誤の反省に立ち、今一度コミュニケーションを対面型に戻そうとする試みなのではないか。もとよりそれが成功するかどうかはわからない。共同体外の「他者」の存在を前にしたとき彼らがパニックを起こさない保証もない。疑似対面型から対面型に、そしてそのあとに「他者」を認識する方向に出てくればと期待する。傲慢な使い方しか知らない大人たちやメディア一世より、彼らの柔軟さを評価したいのである。

(p.163)


武田氏は、これら一世(大人)と二世(若者)の相違点と共通点を次のようにみてとる。

若者の視線が「ケータイ共同体」の内側を見ているとすれば、大人たちは「会社共同体」のそれにしか眼が向けられていない。ムラの学校を出てからも企業や仕事にかこつけた閉塞的なムラ社会に住み、共同体内の生活に汲々としてムラ秩序の枠外のことに踏み出さない。……。そうした大人たちゆえ、ケータイの使用はそのほとんどが会社や業者との対話で成立する。大人にも「他者」がいない。

(p.165)


他者のいない共同体に生きているという点では大人も若者も同じ、その「共同体」あるいは共同体の「ウチ/ソト」のとりかたが違っているだけ、ということだ。


小原信「不安定なつながりが逆に孤独を深めている」は、この「ウチ/ソト」=「we/they」を軸に議論を展開している。

[ケータイは]話すといっても、狭く限られた仲間(we)とだけ連絡しあうのだから、画面のなかの内集団だけが他者となり世界の狭さは変わらない。
……。
モリーに入っていない者は、存在してもいないのと同じだから「彼ら」(they)とみなして無視する。そのうえで、(1)会って話す人(顔とか声もわかる)と、(2)電話で話す人(声だけは聞こえるメル友と友だちに分かれる)と、(3)メールで伝える人(メッセージだけの人)の三つに分かれる(ここではメル友と友だちに分かれる)。さりげなく他者の介入を回避しながら、自己主張する情報機器が、パソコンとならぶケータイなのだ。

(p.167)


武田氏にくらべると1936年生まれの小原氏の議論は、かなり否定的な見かたに傾く。
上のような(1)〜(3)の三分法をみると、あまり若者のケータイの利用実態をご存じのようにも思えない。
かなりの程度、(1)〜(3)のような相手は重複しているし、対面と音声通話、メールの利用は正の相関を示すのだが。
このwe/theyの区別は、次のように公私の議論につなげられていく。

ケータイを使うと、公的空間が即私的空間になる。着信音は、公私の境界を突如として曖昧にし、…その後遺症がどういう結果になるかを考えないと、まわりは私的空間のせめぎあいになる。
……。すべてを私化(privatization)することでわがもの顔にふるまう傾向は深刻である。何でも平気で私物化する人は、裏方の苦労などがわからず、自分一人のことしか考えられなくなる。そういう人の生き方は、ケータイの小型化により〈われ〉の私化を一段と加速していく。……。
公的空間を日本人はふだん、weとみなさないでtheyとして突き放しがちである。だから、世界はふたり(自分たち)のためにある、と言わんばかりに身勝手にふるまうのは、核家族構成とか少子化にも原因がある。

(p.168)


weの極小化をもたらすのがケータイであり、その結果、公的空間がweでなくなる、というわけだ。
この指摘はある面であたっているかもしれない。
旧来的な公/私の区分の無自覚な前提をとりはらうならば。
土井隆義『〈非行少年〉の消滅』(信山社、2003年、pp.78-9)から引いておこう。

電車内などの公共空間で、自らの欲望の赴くままに我物顔でふるまう少年たち、たとえば、携帯電話での会話に喚声をあげて熱中する高校生、学校の制服から私服に着がえたり化粧をしたりする少女、人目をはばからず抱擁しあうカップルなどにとって、その同じ場所に居合わせているはずの他者は、彼らの世界の外部へと完全に排除されている。認知はされているのしても、せいぜい風景の一部にすぎず、意味のある他者とは映っていない。
……。
大人たちは、最近の若者は公共の場でのマナーが悪いと嘆くが、そもそもマナーが成立するためには、他者が他者として認識されていなければならない。しかし、最近の若者たちにとって、認識される他者の範囲はきわめて狭くなっている。……。この意味において、彼らのふるまいは、他者の存在を無視した悪意の結果ではなく、他者の存在に無知なる結果である。彼らに欠けているのは、マナーの知識ではなく、他者の認識なのである。


内輪化することでしか他者が認識できないとき、そこに「公」的空間の成り立つ余地はない。
翻って、「私」的空間(との分節そのもの)も成り立たない。
1人称(I)と2人称(you)があって、3人称(he, she)はない。
そこでは、3人称は「風景」=非人称(it)へと転化する。
ケータイ的なる社会空間とは、3人称を欠いた1人称‐2人称関係のネットワークなのではないか。
むろん、その1人称‐2人称関係においても、何かしらの規範やマナー、配慮ははたらくだろう。
それは2ちゃん的な「空気読め」だとかの規範であるかもしれない。
その規範やマナーのありようが、3人称を前提とした「公(共)」的なそれとは異なること。
そこに「おとな(メディア一世)」と「若者(二世)」の最も大きなジェネレーションギャップがあるのではないか。