ネットと「表現の自由」

昨日、かつて同僚だった大石泰彦さんからご著書『メディアの法と倫理』(嵯峨野書院、2004年、ISBN:4782303955)を送っていただく。
恥ずかしながら、この分野には疎いので、ぼちぼち読み進めながら、勉強させていただいているところ。
コンパクトにまとまったわかりやすい入門書という印象。
「少年A」の退院報道がなされたというタイミングにあたって、いくつか抜き書き。

インターネット表現に対する規制のあり方について、…いわば予備知識として、この問題にかかわりの深い表現の自由の解釈に関する二つの理論を再確認しておきたいと思います。
第一の理論は、「表現」と「通信」の区別です…。この理論によれば、憲法第21条1項に規定される「表現の自由」によって保護される典型的な行為は不特定多数者に向けて情報を伝達する行為(マス・コミュニケーション)であり、特定の人(あるいは、人たち)に向かって情報を発信する行為(パーソナル・コミュニケーション)は、同条2項の「通信の秘密」による保護を受けるものとされます。さらに、憲法が通信(パーソナル・コミュニケーション)に対して保障しているのは「自由」ではなく「秘密」ですから、パーソナル・コミュニケーションの自由はマス・コミュニケーションの自由よりも高いレベルの保護を受ける自由ということになるわけです。
第二の理論は、「放送の自由」の特殊性です…。…すなわち、プリント・メディアの自由が基本的に“国家からの自由”であるのに対して、放送の自由は“国家による後見の下におかれる自由”としての性格を有しているのです。……。
以上のように、わが国においては、「通信」「プリント・メディア」「放送」の各メディアごとにその自由制約の論理構造(あるいは、自由保障の水準)はそれぞれ異なっています。問題は、インターネットを不特定多数者に対して情報の伝達を行いうるような方式で利用する場合…、そうした行為の自由を憲法上どのように構想するかという点ですが、この点に関しては、大別して三つの考え方が存在しています。

(pp.85-6)

第一の考え方は「放送モデル」説であり、この説をとる論者は、インターネットに対しては放送と同等の自由(国家による後見の下におかれる自由)を保障することが望ましいと主張します。そして、その理由としては、(1)インターネットのホームページは世界的な規模で情報発信ができる映像媒体であり、放送メディア的な性格を有していること、(2)インターネットは青少年を含む個人の居室において容易にアクセスしうるメディアであることなどの点が挙げられています。この説をとる場合、必然的に…インターネットについても包括的な「インターネット法(サイバー法)」の制定が必要であるということになるでしょう。
第二の考え方は「プリント・メディア・モデル」説であり、この説を説く論者は、インターネットには電波の稀少性という規制根拠は存在せず、またそれは一般人が容易に“送り手”たりうるメディアであるから、「思想の自由市場(政府の介入の極小化)」という古典的な法理が適用されるべきであることを指摘した上で、インターネット表現に対しても基本的にプリント・メディアを対象とする既存の法律(名誉毀損法制、わいせつ表現規制法など)を適用すればよいと主張します。
第三の考え方は「自主規制モデル」説であり、この立場に立つ者は、(1)情報が容易に越境する環境の下では、インターネットに対する実効性のある法規制は不可能、あるいは多大なコストを必要とすること、(2)一般人が情報の“送り手”となりうるインターネット空間においては、他者の情報発信に対しても寛容の姿勢で臨むべきであり、被害を受けた場合にも言論の応酬による解決が図られるべきであることなどを根拠として、法規制ではなく自主規制によって諸問題の解決をはかるべきであると主張します。

(pp.86-7)


つづいて少年犯罪報道について。

……いわゆる少年(20歳に満たない者)が犯罪・非行を行った場合の取材・報道のあり方について……まず確認しておかなければならないのは、次のように規定する少年法第61条です。
家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」
……もちろん「新聞紙その他の出版物」には放送メディアも含まれると考えられています。

(p.197-8)

しかし、近時における少年事件の様相の変化(いわゆる「凶悪化」)を指摘した上で、こうした従来のマス・メディアの方針に疑義を唱えるメディア(雑誌)も一部に出現しています。……。
さらにこうした中、従来の“一律禁止”に近い少年法解釈を過剰な報道規制、すなわち犯罪に関する社会的討論に対する過度の法規制であるとみなし、少年法第61条をより柔軟に――すなわち、場合によっては加害少年の身元を明らかにする情報の公表を許容するものとして――解釈する論者もあらわれています……。しかしながら、こうした解釈に対して、(1)憲法上の権利である「成長発達権」(第13条および第26条から導出される少年の権利)の視点から見た場合、成長過程で重大な失敗を犯した少年に対しては更正に適した環境の提供が行われなければならないこと、(2)加害少年の氏名や写真などを公表しなくても、マス・メディアが一般の人々に事件に関する事実関係を知らせ、かつ社会に警鐘を鳴らすことは十分に可能であることを理由に、現在の一律規制を支持する主張も存在しています。

(p.199)


さて、インターネットの「自由」を、(1)放送モデル、(2)印刷媒体モデルで考えた場合、少年法第61条(を根拠とする何らかの法的規制)の適用が可能となる。しかし、同条には罰則規定がない。マスメディアは自主規制の方針をうちだしているが、これをネット上で求めるのは、ネットの現状をみる限り、およそ実効性はないだろう。
一方、インターネットの「自由」を、(3)自主規制モデルで考えた場合、「被害を受けた場合にも言論の応酬による解決が図られるべき」という考え方は実際上およそ意味をもたないのではないか。実名等を知られることが問題であるのだから、それが知れ渡ってしまった後の「言論の応酬」にどれほどの実効性があるだろう。
よくいわれるように、既存の「法と倫理」の枠組みは、もはや急速に変化した現実に対して実効性をもちえなくなりつつある。
それゆえに、「自由」「責任」といった理念・倫理的概念を測る物差し自体の根本的な組み直しが求められている。
「情報倫理学」の構想が進められてはいるが、どうなんだろ。
拙速は避けるべきだが、そうのんびりはしていられない状況であるような気もする。