あら?!

北田さんがマイアソンの『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』を評している(ココ)。
ぼやぼやしてるうちに、先をこされたぜ(笑)
簡潔かつ的確な評。
確かにマイアソンのハーバーマス理解とケータイの分析は私も粗雑だと思う。
「大澤さんの解説もかなりスリリング(というか本文より面白い)」というのも大賛成(笑)。


ただ、マイアソンも自らの粗い「システム/生活世界」「戦略的行為/コミュニケーション的行為」のなかで混乱してしまっているようにみえるが、ケータイ的コミュニケーションの本質にかすってる(というのも変な言いかたか?)ところもあるように思えて、その点が私にはちょっと気にとまった。
たとえば、次のような点。

ケータイの世界観をなす二つの正反対の要素が、ここでは奇妙に溶けあっている。一方ではこの上もなく個人主義的な様相があり、これは原子のようなものだといってもいい。現実の会合は一切ない。そのかわりに存在するのは孤立した個人だけで、めいめいが各自の世界に閉じこもり、ときおりまばらに、あくまで機能上の目的で接触をもつ。もう一方ではメッセージのシステムがあり、そのレベルでは人間の行為者はまったく存在しない、というのも、メッセージがまるっきり独自の生命をもって増殖し繁殖し、ただもうあふれかえっているありさまに、人間は圧倒されてしまうからである。集団のかわりにあるのは、一面では個人のみ、他の面ではまったくのシステムのみであり、このシステムはただシステムそのもののために、できるだけ効率的に動くのである。

(p.48-9)


粗い理解に基づく「“個人/集団”/システム」という入れ子的(?)二項対立の物差しを使えばそういうふうに見えてしまうのだろうなーというのも、とりあえずどうでもいいとして。
また、「現実の会合は一切ない」っつうのは実情をわかってないぞ(少なくとも日本ではあてはまらないし、イギリスでもそうだとはあまり思えない)というツッコミも措くとして。
えー、その他、ツッコミたくなるところはまだあるがそれも措くとして。
ケータイ的な関係のネットワークが(それを「システム」と呼ぶかどうかはともかく)、それ自体の論理・文法でもって、ある種自律的に作動し始め、「個人」がネットワークのノード(結節点)にすぎないものと化す、というふうに読み替えるなら、そのイメージにはうなづけるところがある。
そのネットワーク(とノード)に流通するものは何なのか。
それは「相互行為」や「コミュニケーション」ではなく、“動物”的な「(相互)反応」だ。

ここで彼[ハーバーマス]はじつに長期的な視野をとり、大きく振り返って進化の霧の中へ分け入り、犬とか、もっとずっと単純な生物をとりあげて、そうした種の行動に自説をあてはめているのだ。この説によれば、コミュニケーションは、初めて「反応」が起こったときの、あるきわめて初歩的な相互作用から進化してきたものである。

この相互作用はどんなふうに起こるかというと、一方の生物の側で始めた動きが、もう一方の生物の側に、反応を引きだす刺激としてはたらく身ぶりになる。
二つの「生物」は……一方が動くと、もう一方が「反応する」。ハバーマスの見方では、進化のこうしたごく原始的な段階でのみ、「反応」は、もとの身ぶりから機械的に、なんら「理解」らしきものがはたらくことなしに起こる。…(略)…
そこで再びブルーミングデール百貨店での会話[ケータイ的なる「会話」]を見ると、これはぞっとする光景に見えてくる、というのも、まるで進化が後戻りしているかのようであり、進歩の見かけのもとで、ものすごい退化が起こっているかのようであるからだ。意味は飛ばされ、理想的な相互作用には遅すぎる媒体をされる。今や目標は理解をまったくなしですませることであり、ハバーマスの描いているこの初期段階どころか、もっと初歩的な「身ぶりの会話」に戻ることなのだ。
(p.57-9)


ここで指摘されているのは、ある意味で「動物化」のことだ(かなり苦しいパラフレーズだが)。
戦略的行為以前の相互の「反応」が――それは「つながり」の維持・確認をもたらすものと私は読み替えたい――ケータイの媒介するネットワークを流れてゆくのだ。
そのネットワークはある面では、因果的な(原因‐結果の系列による)反応系=「工学的」「心理学的」な機械であるだろう。
社会の「工学化」、「心理学化」と、その点で関連をもつものではないか。
その機械からノードたる「個人」へのはたらきかけは、「戦略的行為」ではなく、むしろ「反応」の解発(release)だ。
マイアソンは、その点にかすりつつも、完全に混乱してしまっているようにみえる。


マイアソンについては、前にちらっと“Rhetoric, Reason and Society”という本をめくってみたことがあるが、どうもなーという印象があった。
そこでもハーバーマスが思い切り引かれていたのだが、ルーマンとの論争にはふれていない。
日本の読者であれば「おいおい」と思うところだろうが、実のところ、マイアソンはたぶんこの論争自体を知らないんじゃないかと思う。
“Theorie der Gesellschaft oder Sozialtechnologie”って確か英訳されてなかったんじゃないかと思うので。
英語圏の学者さんって、けっこう驚くほど原文にあたらんもんなのよね(私もドイツ語原文にあたってるかというと、うー、すいません、偉そうなことは言えません、なのだが)。
代わりにけっこう紙幅が割かれていたのはパトナム。
パトナムを引くのはいいんですけどね、どうもその引きかたがなあ。

Suppose that English was spoken. Putnam proposes two relations between English and the world, two sets of connections between the language and reality. each connection implies a model of English, a way of understanding the language in relation to experience. Men use English with one model, women with the other! Out there, God can see, are some objects which men refer as 'cats'. And other objects which women refer to as 'cats*'. The objects are not identical. But the uses of cats/cats* always coincide. Whatever sentence is true of 'cat' is also true of 'cats*'. Therefore, no one can ever realise the difference, that men are referring to a 'cat' and women to a 'cat*'. Whatever the difference is, it is not observable by comparing things men say about 'cats' to things women say about 'cats*'.

(p.10)


引かれている内容自体は(若干不正確に思えるところもあるものの)まあよしとして、これ、パトナムが『実在論と理性』のなかでレーヴェンハイム=スコーレムの定理とからめて、「指示」や「真理」の問題について、かなり緻密かつテクニカルな議論を展開した箇所なんですよね。
その箇所本体ではなく、そこにふれた前書きから引いてきていて、それもまあいいんですけど、分析哲学での議論の文脈からほとんど切り離してしまって引用するのは、ちょっとやはり乱暴ではないかと。
このあともこの調子の引用のしかたなんですよねえ。
分析哲学の議論って、かなり細分化もされてるし、これまでの議論の文脈を前提として(しかもその文脈の説明ぬきのことが多い)展開されているので、文脈をきちんとおさえないとトリビアルな議論に思えることも多いし、論のポイントもつかみにくい。
私も正直言って理解しきれてるわけじゃ決してありませんが、どういう分析哲学的議論の文脈のなかでこういう論が展開されているのかを紹介せずに引用するのは、いかがなものかと思う(分析哲学プロパーの読者を相手とした論文・著作の場合はともかく)。
なんか、このくらいのことなら、パトナムからめいっぱい引いてこなくてもいいんじゃないの、とも思ったのでした。


まあ、このマイアソンという人は、哲学畑の人ではなく、英文学者のようだからなあ。
文学者に出番はない、ってとこですかね(ココを参照)。