反‐ゲーム脳

の本なり何なりを、だれかが論者をまとめて出しておいたほうがよいのかもしれない、と思った。
きっかけは、今春号のInterCommunication(48号)。
特集が「大学」だったので買ったのだが(あまりにおもしろそうな稲葉振一郎+黒木玄対談に惹かれて)、その特集とは関係なく連載されている斎藤環さんの文章を読んだ(「メディアのオートポイエーシス」)。
はてなについても、「このコミュニティには、東浩紀仲俣暁生北田暁大といった、さまざまなプロの書き手や学者、批評家が次々に参入しつつある」とちらっとふれられているが、それはさておき。

ここで個人的な経験を語っておこう。私自身、この「PageRank」の機能を利用したある「運動」に関わった(関わることを余儀なくされた?)経験があるからだ。
試みに「Google」で「ゲーム脳」もしくは「斎藤環」を検索してみてほしい。「『ゲーム脳』徹底検証 斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖1」というページが先頭に来るだろう。


どれどれやってみよー。
あ、ホントだ、トップに来る。


その下にくるのは、「携帯メールでも脳が壊れる?」ってascii24.comの記事(02年9月3日付)。
「たとえば森教授が調べた携帯メール利用者のケースには、テレビゲームはいっさいやっておらず、パソコンも所有していないが、携帯電話でメールを毎日1時間程度入力するという女子高校生がいる。この少女は、携帯メール利用時にβ波がほぼ半減しているという」。
はいはい、そーですか。
実験室につれてこられて「何やらされるんだろ」と緊張してるところに、日頃やりなれてるメールをやらされたんで、リラックスしたんじゃないですかねー。
こーゆー「知見」、正高氏は『ケータイを持ったサル』を書いたときに知っていただろうし、いかにも引用したくなるような「知見」だと思うが、でも引用していないのは見識というべきなんだろうなあ(今後の著作でまちがっても引用せんとってほしい)。


で、その下に来るのは「ひろゆきの先天性ゲーム脳」。
これはいいや。
次にでてるのは「「ゲーム脳」の影響はここまで来た! 女たちはなぜパンツを見せるのか」というWeb現代の記事(02年10月23日付)。
取材・文は、とんでもゲーム脳論追随ジャーナリストとして名高い、かの草薙厚子氏。

「ファッションというのは、どんな意識的な理由(口実)があったとしても、無意識な『繁殖戦略』が隠れています。よくいわれる本能というものです。男性に訴えかけるような体型とかファッションをする、わざとセクシーに見せるとか、逆に慎ましく見せるとかは、人を意識している行動なのです。これは問題ではない。ただ、無意識に下着が見えるような格好や行動をしたりするのは、周りに対して無頓着、かまわなくなるということなので、脳の障害でおこるれっきとした病です。パンツが見えようが、ブラジャーが見えようが気にしないというのは、それはうつ病の傾向を疑うか、人間としての本来的な働きが落ちていることなのです。実際、分裂病のかたは身なりを気にしなくなります。外界に対する意識の障害ですね。ある状況に対して、自分はどういう立場なのかという意識がないんです。そういう人たちが目だってきています。周りにどう思われているか意識しない、自己意識がなくなるというのが、『ゲーム脳』といわれている正体でもあります。若者が切れやすいというのも前頭前野の働きがにぶっているからです」(北大医学部・澤口俊之教授)


うげ。
現代思想』に寄稿するような人まで(だからこそ?)、こんなこと言ってるよ...
ブラチラ」「パンチラ」の女性が増えてるってのは、どうも週刊誌の関心をひくネタであったようで、数年前に『SPA!』からも電話取材があったが(何でオレんとこに取材に来たのかいまだによーわからん)、そこまで「脳」で説明するかね。
社会‐文化的な要因(の変化)によるところのほうが、どう考えても大きいと思うが。
少なくとも「ブラチラ」「パンチラ」の脳に障害があることを確認してから、ものを言ってほしい。


自然科学系の研究者だけでなく、たとえば門脇厚司氏のような教育社会学者まで(宮台さんと『「異界」に生きる少年少女』を編んだ人)、次のようなことを言う。

森先生の指示に従って被実験者になってくれた学生が何をやるかによって、脳波記録装置に表れる脳波が刻々と変化していくのを目撃するというのは、迫力があり極めて説得的な体験であった。
なぜそうなるのか。現時点での私の知識や理解ではよく説明できないが、そうなる事実をこの目で確認できた収穫は極めて大きいものであった。……。
森教授が行ってきた数多い実験の結果はその後『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版)という本になって出版されているが、二〇〇二年秋には、テレビやビデオやテレビゲームやパソコンやケータイなどが子どもの脳や心の形成にどのような影響を及ぼしているかを科学的に解明することを目的にした「日本健康行動学会」を創設していることも書き添えておく。遅きに失した感がなくはないが、こうした学会が立ち上がり、本格的な研究が開始されることになるのは誠に喜ばしいことである。

(『親と子の社会力』朝日新聞社、2003年、pp.151-2)


メディアの影響について、脳科学的な「本格的な研究が開始」されるようになってほしいと、私も切に望む。
まともな学術的手続きをきちんとふんだ研究が、ということだが。
偏見と予断によってトンデモ研究の「知見」をまきちらすのだけはやめてくれ。


門脇氏はずっと「東京都青少年基本調査」にもたずさわっていらっしゃったし(現在残念なことにこの調査は中断、宮台さんが都知事になってぜひ再開してほしい)、その著書や論文からいろいろ学ばせていただいたところもある。
決して嫌いなタイプの研究者ではないのだが、それでもこの世代には(あまり世代で斬るようなことはしたくないのだが、ちなみに門脇氏は一九四〇年生)、どうも最近のメディアに対する生理的な抵抗感か何かがあるのではないか、それによって議論に予断が混ざってきてしまうのではないか、と思わされるところがある。
たとえば。

最近高校生を対象にして行った調査によれば、彼らのほぼ七割以上がポケベルやケイタイのどちらか、ないしは両方を持っていると答えている…。これに、電話、ルス電、ファックス、パソコン利用を加えたら若い世代のモバイル機器の利用度は相当に高くなっているはずで、その分、直接的な接触が敬遠され少なくなっているとみていいだろう。
こうしたモバイル機器は、間接的であれ、まだ人とのコミュニケーションを可能にする機械であるから救いがあるが、これがテレビゲームとなると、ほとんど人との接触を断ち切ることになる。

(『子どもの社会力』岩波新書、1999年、p.146)


いや、一概に「テレビゲームとなると、ほとんど人との接触を断ち切ることになる」とは言えまい。
テレビゲームは一人で遊ぶもの、というのはある年齢層の固定観念としてあるようだが、小学生から大学生にいたるまで、友だちといっしょに遊ぶことはめずらしくない。
千葉大学の明石要一教授は、日経新聞(04年3月6日朝刊)への寄稿で、次のような研究(学生さんの卒業論文)を紹介している。

そこでは、シングル・エイジまでの遊び体験を外遊び(秘密基地を作った、探偵ごっこをした、昆虫を捕まえた)と内遊び(テレビゲームが好きだった、シールを集めた、アニメに詳しい)に分けている。
小学校の低中学年の頃、外遊びと内遊びの両方をした者は大学生になっても社会問題に関心があり、負けず嫌いでモチベーションが高い。そして友人関係も異性関係もうまくいっている。
ところが、興味深いことに外遊びだけだった者は年金や株価、失業率といった社会問題に関心が薄い。その上、人見知りが強く、友だちが恋していることを見抜けない。人前で泣かなく、自分なりのこだわりはもっているものの人間関係能力は低いのである。
テレビゲームやシール集めは、当時の子どもの世界で流行っていたものである。外遊び中心の者は友達に関心がなかったのだろう。それが大学生になって自分だけの世界を作るようになっている。外遊びの大切さは言うまでもない。どうもそれだけでは不十分。小さい頃から友達の間で何が流行っているか、という遊び仲間感度を持つのが大切のようだ。


私が96年におこなった中・高・大生調査では、テレビゲームで遊ぶときに、一人で遊ぶことが多いという者は中58%・高53%・大57%だった(水野博介・辻大介「若者の意識と情報コミュニケーション行動に関する実証研究(1)」/「同(2)」、『埼玉大学紀要 教養部』32巻2号/33巻1号、1996年/1997年)
逆にいえば、「友だちと遊ぶことが多い+半々」がそれぞれ4割以上ということだ。
また、一人で遊ぶ者は、友だちと遊ぶ者に比べて、遊ぶ頻度が有意に高い。
そして、孤独感が高く、機械親和性が高く、外向性が低いなどの特徴がみられる。
ここでおもしろいのは、テレビゲームを友だちと遊ぶ者は、テレビゲームで遊ばない者に比べて、こうした対人心理傾向に差はなく、むしろ(有意な差ではないが)孤独感・機械親和性はより低く、外向性はより高いくらいであることだ。


つまり問題は、テレビゲームというメディアそれ自体ではなく(それで遊ぶか遊ばないかではなく)、それをどういうメディアとして使うか(関係を媒介するメディアとして使うか/関係から閉じこもるメディアとして使うか)、にある。
こうしたメディア(利用)の社会的側面を見据え、きちんとその実態を検証・分析していく手続きが、「脳科学」的なアプローチには欠けている。
自然科学的なアプローチによって「知見」が蓄積されるのはいい。
その「知見」が一気に偏見や予断に満ちた印象論に短絡されてしまうこと。
繰り返すが、そのことがあやういのだ。
社会的影響を云々するには、その「知見」は出発点にすぎず、「結論」(=実際の社会的影響可能性)を導くには、それとは別の地道な「知見」と「論理」の積み重ねが必要なのだ。
脳科学者にできる・してほしいのは、その「出発点」をきちんと固めることだ。
出発するための足場がぬかるみでは、そこに足をとられて、前に進むことはできない。
だから、その足場固めについては期待している。
が、出発してからの行路においては、脳科学者の出番はない。
それくらいの領域分担はおたがい弁えたいものだ。


だいたい、テレビゲーム以前から、テレビ視聴時のα波優勢・β波低下という議論はずっとなされてきていた。
ゲーム脳」ほどのトンデモ度ではないにせよ、似たような役割を果たしたのが、ケイト・ムーディの広めたキャッチフレーズ「ゾンビー・チャイルド」だ(邦訳『テレビ症候群』家の光協会、1982年)。
テレビ視聴中の脳波研究についても、覚醒中にふつう現れるはずのないδ波が現れていたために信頼性を疑問視されている実験や、α波が優勢になることを否定した実験もある(これらの研究については、少し古いが、橋元良明「映像メディアと脳」『マス・コミュニケーション研究』46号、1995年にざっとまとめられている)
こうした一連の関連研究が注目もされず、知見の蓄積の重要性が一顧だにされず、目新しいキャッチフレーズばかりがセンセーショナルにまきちらかされるというこの現状は、何なのだ?!
どうせまた10年も経てば、キャッチフレーズだけが替わって、同じことがおきるんではないか。
「少年犯罪の凶悪化」言説だって、落ち着いた教育(社会)学者の啓蒙活動によって鎮静化してきたふしもあるし、この際、「ゲーム脳」に関しても、きっちりオトシマエつけといたほうがよいのではないか。


そんなふうに思ったのでした。
(ゲーム)脳ブーム関係については、これまでもちくちくと書いてきたので、いいかげん書く気もなかったのだが、これが最後ということで。
ゲーム脳バッシングなんてそれ自体は何ら建設的なものではなく、前に進むための露払いにすぎないのだから。