多元化する自己?

リクルートのInstitut der Arbeiten、日本語名「ワークス研究所」というところから、取材の申し込みがあったので、サイトをのぞく。
そこにアップされている学芸大浅野智彦さんの「若者の自己の多元化」に関するインタビュー記事を読んだので、いくつかひっかかったところをメモしておきたい。
自己の多元化については私も別途、仮説的に提示しておいたことがあるし、問題提起としてはおもしろいんですけども、示唆に富む話の内容でもあるんですけども、ちょっと私自身、今後どう展開するか思い悩むところもあるもんで。
私のたずさわった調査データを分析してみると、「自己の多元化」にすなおに結びつきそうな結果がでてこないもんですから。


浅野さんはまず、92年と02年におこなわれた16〜29歳対象の若者調査の結果の一部を、こう紹介している。

まず92年の調査からは、多くの若い人たちが多元的な自己を生きているということが読み取れました。例えば回答者の75.2%が「場面によって出てくる自分というものは違う」と考え、43%が「自分がどんな人間かわからなくなることがある」と感じていました。ちなみに2002年の調査では前者が78.6%、後者は45.9%に上昇しています。


いずれも3%程度の上昇なので、有意な差なのかどうか(パネル調査でない経年比較調査データをどう検定するかの専門的な問題はとりあえずおいとく)。
有意であったとしても、3%程度の増加をもってこの10年の一定した変化傾向といえるかどうか。
私個人の調査経験からいえば、調査間隔が1年であったとしても、これくらいの変動はありえそうな気がする。
毎年おこなわれているような経年調査でも、1年ごとに数%の凸凹はあって、10年単位の期間でならしてみると、ほぼ横ばいでしかない、という調査結果もよく目にするところですし。
つまり、ある種の誤差の範囲内ではないかということ(どういう誤差要因が考えられるかは後述)。

冒頭でも少し触れましたが、92年の調査では「場面によって出てくる自分というものは違う」と、「自分には自分らしさがあると思う」という2つの質問に正の相関があった。つまり「それぞれの状況で出てくる顔に整合性はなくても、その場では自分らしいと感じていたのだから、それなりに自分らしい」と考えられていた。ところが02年の調査では、この相関が非常に弱いものになってしまいました。
10年前は場面ごとに出てくる自分は違っても、そのどれもが自分らしいと感じられていたが、その感覚が消滅しつつある。自分らしいことと、場面ごとに出てくる自分が違うこととを、あまり関連づけなくなったということです。そして場面によって出てくる自分が違うのは、「やはり一貫性がない」と認めるようになってきたのです。


「場面によって出てくる自分というものは違う」と「自分には自分らしさがあると思う」が相関しないのは、アイデンティティがまだ確立しきっていない若者期にみられるありふれた現象として、つまり、旧来的な一元的自己の図式でもって、容易に説明がついてしまう。
92年調査でみられたような、「場面によって出てくる自分というものは違う」のに、しかし「自分には自分らしさがあると思う」という、“しかし”の接続詞でむすばれるところに、多元的自己論のおもしろみ、有効性があったはず。
その“しかし”がみられないとなると、わざわざ多元的自己の図式をもちだす意味がなくなってしまう。


私が02年に首都圏の16〜7歳を対象にランダムサンプリングでおこなった調査でも、これらと似たような設問をしたんですが、やはり多元的自己図式の裏打ちとなるような相関はみられなかったんですよね。
98年におこなった東洋大生調査、99年の関大生調査、00年の東洋大生・関大生調査では(いずれも有意抽出)、それなりに裏打ちとなるような相関がみられたんですけども。


ここで、ひとつ気になるのは、浅野さんの調査の有効回収率。
92年調査が22%であるのに対して、02年調査では55%にものぼっている。
調査方法を変えたためだろうと思われますが、調査の信頼性としてはむろん回収率のよい02年調査のほうが高い。
逆にいえば、92年調査は回答者に何かしらの偏り・特殊性があった可能性があるということです。
報告書をみても、設問数はかなり多いし、それでも答えてやろうという人は、答えなかった人と違う社会的・心理的属性をもっている可能性がある。
だから、母集団(全体)の傾向を反映しないサンプルになっていたのではないか。
私の調査でも、相関がみられた98〜00年調査では、関大生・東洋大生という特殊なサンプル(しかも有意抽出)だった。
02年の調査は、ランダムサンプリングのうえに、回収率も50%近くにのぼっているので、こちらのほうが信頼性は全然高い。


「多元的自己」という図式は、ある特定の一部の層にしかあてはまらなくて、全体にはあてはまらないのではないか。
しかも、その特定の層、および全体の「自己」のありかたは、かつてと比べても実はさして変わっていないのではないか。
そんな疑問を自分に投げかける今日このごろであったため、浅野さんの調査結果についても考えるところが多かったのでした。


いずれにせよ、多元的自己の議論は、もう少し検討を深め、練り直していく必要がありそうです。
がんばろっと。
しごとが一段落したら、浅野さんにも連絡とってみよっと。