焼肉やキムチであったとしてもいいのである

部屋の整理(別名、原稿書きからの逃避行動)をまだつづけてます。
処分する前にスクラップしておこう第4弾。
ミーツ・リージョナル』2001年4月号、「京阪神 街の大コリア百科」特集の「今月の読む目次(2)」より。
(ちなみに『ミーツ』というのは『ぴあ』のような情報誌です。)

以前、鶴橋のある韓国料理店を取材していた時のことだ。その店の常連とおぼしき若林正人風がこんなことを言いだした。“在日とか日本人とかって関係ないよね。みんな一緒でしょ、アンタもそう思うでしょ!?”さも、エェこと言うた俺、みたいに自信満々に同意を求めてくるオッサンに、私はこう返した。
“へっ!?そうですか?全然、違いますよ。だって、私、バリバリ在日ですもん”。オッサンは、一瞬ひるんだ様子で、“いや、一緒やし…”とかなんとか、ゴニョゴニョ口籠もっていた。
もちろん、オッサンの言うことはある意味、正論である。私とて、バリバリ在日などと思っているわけではない。国籍あるいは出身地、見た目いろいろあるが、そういったものだけで人を判断することが愚かであることは言うまでもない。しかし、またある意味、国籍や出身地その他うんぬんは、事実として存在するのである。国籍や民族は、その人個人を完成させる大きな要素であり、その人を示す時の一つの記号である。
折しも前号の本誌「大阪24区」の特集記事のなかで使われた“人種”という言葉が差別的であると物議をかもしたが、これも、件のオッサンと根本は同じだと思う。要するに、人種とか国籍とかをうんぬんするなと言いたいんである。ややこしいから。しかし、人を差別しないとは、何もかもをいっしょくたにしてしまうことではない。日本人、在日に限らず、街も人もそれぞれ違う。その違いを理解できるか否か。
そのとっかかりが、焼肉やキムチであったとしてもいいのである。


こういうことばで書かれたCSの本があれば(焼肉とキムチのCS)、私はもう少しすなおに読めると思う。
マトリックスの思想」を論じるような、おしゃれなCSはもういいのよ。