「脳」語りへの違和感

おととい行った講演会というのは、清川輝基氏(NHK放送文化研究所・専門委員)の「子どもがあぶない! メディア漬けの現状を考える」(@大阪府立文化情報センター)。
えーと、いくつかおもしろい話もありましたけども、端的に言って萎えました。
げんなり。


講演後半で強調されていたのは、メディア漬け→人間性をつかさどる前頭前野前頭葉)の機能低下→少年犯罪の凶悪化などの社会問題、という例の図式。
件の「ゲーム脳」研究やら、東北大・川島隆太教授の研究も、ええ、ええ、ばっちり引かれていましたとも。
いえね、それらの脳研究の科学的妥当性は、もう、さしあたり(どうでも)いいんですよ。
乳幼児期から延々と長時間テレビ漬けだったり、テレビゲーム漬けだったりしたら、そりゃ脳に「異常」もきたすでしょう。
その「危険」性は私だって首肯しますし、自分の子どももまだ小さいもんで、それなりにテレビやビデオ、ゲームへの接触をひかえさせるようにもしていますしね。
子育て中の家庭は「ノー・テレビ・デー」を設けよう、とか、小学校の運動場を生芝にして子どもを外で遊ばせよう、とかの提言も、それはそれでわかります。
ただね。


私がひっかかってしかたないのは、少年犯罪やら「心の闇」やらの問題に、「脳」をもちだすときのその語り口なわけで。
その語り口は、
子どもたちの「脳」が危ない→「身体」を動かして「脳」をきたえよ、
という身体運動論にまず落ちる。
子どもの体力低下は確かに明らかでしょうよ、文科省の統計データをみても。
確かに危機的な現状には違いないでしょう。
「身体」を動かすことが、「脳」の発達に重要であることも認めましょう。
ただね、「身体」を動かすことは「脳」の発達にとって、まして「心」や「人間性」の発達にとって、一つの条件であるかもしれないけれども、それが唯一の必要十分条件ではないこともまた明らかではないでしょうかねえ。
子どもは子どもらしく元気にめいっぱい身体を動かしてりゃ、問題はなくなるのだ、的な物言い。
その短絡性にまず私はひっかかってしまう。
そして、そこには、子どもが身体をめいっぱい動かしていた昔はよかった、的なノスタルジーがどこかで顔をのぞかせてくる。
そうなんすかねえ。
スタンダード反社会学講座(私このサイトのファンなんですが)の第2回によれば、「戦後最もキレやすかった」のは「昭和35年の17歳、つまり昭和18年生まれ」なんですけども。
彼ら彼女らが生まれたとき、ビデオやゲームはおろか、テレビすら登場していないんですけども。
昭和35年って「戦後の混乱期」とももはや言い難いんですけども。
それとも、「戦後の混乱期」に幼少期をすごしたことが「悪影響」してるんですかねえ。
それなら今も、メディア以上にそうした社会的背景が「悪影響」している可能性はないんですかねえ。
ちなみに清川氏は、この戦後最凶の「昭和18年生まれ」の1年前に生まれているようですが(こういう物言いもいやらしいが)、そんなに「昔はよかった」んでしょうか。


繰り返すけれども、乳幼児期から子どもに4時間も5時間もテレビやビデオを見せたりするのがいいことだとは、私も決して思わない。
しかし、そこでの問題は、なぜ小さい子どもを育てる母親が、幼児向けテレビや早期教育ビデオにそこまで長時間子どもをゆだねてしまうのか、ということではないかと私は思う。
ここには、メディアの普及だけではなく、確実に社会の変化が関わっている。
よく言われることではあるが、ちょっとのあいだだけでも子どもを見ていてくれるような人、たとえば、じいちゃん・ばあちゃんや近所のおばちゃん・おじちゃんの手助けが、少なくとも今の都市部では期待できない。
おとうちゃんは会社に行ってしまってて夜遅くならないと帰ってこないし。
かあちゃんは一人で密室のなかで子どもを育てるしかないのだ。
これはきつい。
自分の乏しい経験からしても、これは本当にきつい。
テレビやビデオを見せておけば、とりあえず子どもはおとなしくしている。
そのあいだに家事をすませるわけだが、それに加えて新聞や本を読むような時間がほしいとなると、ついテレビやビデオを見せつづけてしまう。
小さい子どもってのは、相手がいないと(それが人であれテレビであれ)、一人で機嫌よく遊んでいてくれることなどない。
いくらかわいいと思っていても、24時間相手をするのは無理だ。
こんな状況が毎日続けば、おかしくなってもふしぎはないと思う。
育児放棄なり幼児虐待なりも、その延長で考えると、実感としてよくわかるのだ。
それをわずかなりとも救ってくれるテレビやビデオは、ほんとにありがたい存在なのだ。
それが決していいことではないと確信している私でも、妻が出かけて半日一人で子守りをしているときには、テレビやビデオに子どもの相手をさせることはよくあった(まかせきりにはしないけれども)。
まして、「早期教育」なり何なりの「錦の御旗」がくわわれば、それを「言い訳」としてうしろめたさを払拭させたくなる感覚は、ほんとによくわかる。
保育施設に預ければいいといっても、まずお金の問題がある。
決して安くはない。
パートをしている間に預けたとしたら、パート代なぞそれに消えてしまう(だとしても、パートしたほうがいいと思うお母さんがたは多いに違いない)。
しかも、母親は子育て第一、最優先であるべき、というイデオロギーは、何だかんだ言って、いまだにホントに根強い。
子どもをベビーシッターに預けて遊びに行くなんて(私の場合は妻とふたりでということだったが)、うしろめたさが何かしら残ってしまって、そうそうできるものではない。
そんなうしろめたさはイデオロギカルな効果にすぎないと(頭では)わかっているつもりの私ですら、情緒的には「子どもがかわいそう」な気が多かれ少なかれしちまっていたのだ、正直なところ。
いわんや、そうしたイデオロギーにどっぷりと包囲されている世の中のお母さんがたにおいておや。


脳科学の知見をひっぱってきて、だから「ノー・テレビ・デー」と言ったところで、その受け皿(社会的対応)をきちっと考えんと、事態は改善するはずもない。
もちろん、清川氏の話のなかでも、その受け皿の話にはちらっとふれられていた。
お母さんがたが自由に集えるような公民館なり地域センターの開放の話とか。
ただ、こういう「受け皿」作りのほうが、どういう「脳」を作るかより、問題としては100倍難しいだろう。
公園デビューとか幼稚園ママとかのややこしさを見るだに、公民館を開放すればそれでオールOKとはとてもなるまい。
そこをまずクリアしておかないと、「ノー・テレビ・デー」の導入は、逆に、社会から孤立した子育てなり何なりの問題をさらに助長しかねない。
この受け皿(社会的対応)の話を脇においやって、脳科学をひっぱってくれば、そりゃ問題はシンプルに見えるでしょうよ。
テレビやゲームを子どもから取り上げて、身体を動かすようにさせれば、即、問題解決ってぐあいにね。
しかし、問題の本質を考える際に、脳科学の出番はない。
問題の前提を明らかにしたら、とっとと引っ込むべし。


「脳」によって問題に答える、というのは、人間をひとつの「機械」とみなす見かたに基づくものだ。
工学的管理の発想といいかえてもいいだろう。
テレビやゲームへの長時間接触→「機械」が故障する→故障の原因(=メディア接触)を除去→問題解決、というわけ。
この工学的管理の図式を、どこまで複雑に精緻化していっても、そのなかに「人間(性)」はあらわれてこない。
人間性」は、それをつかさどる「前頭前野」というひと言によって、片づけられ、図式のなかからは排除される。
それはまた、大澤さんや東さんが次のようにいう「家畜管理」の発想・図式でもあるだろう。

大澤 ……仮想現実だ、インターネットだ、といったメディア論がこの一〇年間いろいろ出てきたわけですが、僕は、この一〇年を振り返って…もっとも重要な変化とは、この秩序形成の質的変化だと思います。……。規律訓練型社会から環境管理型社会への移行が起きた。その変動を技術的に支えるのが、ネットワークやユビキタス・コンピューティングなのです。それは、よく言えば、多様な価値観を共存させる多文化でポストモダンなシステムです。しかし、悪く言えば、家畜を管理するみたいに人間を管理するシステムでもある。……。
 家畜、という表現が出たので少し付け加えておくと、『動物化するポストモダン』で論じた「動物化」は、こういう秩序形成の変化と密接に関わっています。人間は決して「人間的」な部分だけで生きているわけではない。たとえば食物を食べなければ人は死ぬ。どんな建物にもトイレは必要である。そして食堂やトイレをどこに配置するかで、人々の動線はけっこう支配できてしまう。
ジョージ・リッツァという社会学者の『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版部)が、一九九九年に翻訳され、一部で話題になりました。この本は、マクドナルドの消費者管理の一例としてイスの硬さをあげています。イスが硬ければ、長いあいだそこに座っていられないわけで、客は何となく去っていく。そうやって消費者を回転させている。……。これらはまさに、人間の「動物的」な部分に訴えかけた管理です。……。ビッグ・ブラザーが「食事は三〇分で終えろ」と命令する社会と、イスが硬いせいで何となく三〇分で食事を終えてしまう社会と、「管理」という点では同じ効果が起きているわけですが、そのどちらが良いのかはよくわからない。

(『自由を考える』NHKブックス、2003年、pp.33-4


人間性の喪失を問題にしているはずの語りが、「非人間的」(動物的・工学的)な語り口と奇妙に親和的であること。
それもまた、今日の時代性を写しとるものなのだろうか。