『若者はなぜ怒らなくなったのか』

昼飯どきに読んでみた。
専門書だと消化悪くなりそうなんで、軽く読めそうなやつを選んだのだが、はたして消化によかったかどうか。
団塊世代団塊ジュニア世代のあいだの狭間世代の63年生まれの著者が、団塊世代団塊ジュニア世代を罵る本。
『声に出して読めないネット掲示板』の著者としてのほうが有名ですかね。
個々の罵倒点はよくわかるところもある。共感するところもある。
でもね。
ほんとに「小言ジジイ(じゃなくてババアか)の説教」なんだな、物言いが。
どうして説教が通じないかを考えることなく、説教が通じないこと自体を怒ってまた説教してしまう。
ここまで説教らしい説教は今どきめずらしいかもしれないから、その意味では清々しいのかもしれないが。
説教の特質は、相手の言うことをはなから聞く気がない、という点にある。
ひとり言のバリエーションといってもいい。
あまりいろいろ取り上げる気もおこらないので、一カ所だけ引いておこう。

つまるところ、ネットでの論争が往々にして不毛なのは、「テーマそのもの」を見るのではなく、「自身と異なる意見を持った他者」しか見ようとはしない人間たちによって「議論」めいたことがなされようとしているため、なのだ。どこの誰かは知らないけれど、とにかく自分とはちょっと異なる感じ方、表現の仕方をする「他者」のことを、とにかく攻撃してやりたい、「参った」と言わせてやりたい、そんな目的のために書かれた文章の積み重ねを「議論」と呼んでしまっているのである。

(p99)

それって、あんたの「議論」にもはね返ってこない?
ある話法を批難する物言いが、当の話法を反復してしまうのは何故?
春日武彦氏の『17歳という病』ように屈折した自己意識をもつ語り口もイヤミであまり好きではないが、こういう「悪口言ってすっきりしたい」的なストレートさには、好き嫌いの域をこえて、ちょっと脱力してしまうようなところがある。
エッセイとしてならまだしもなんですけどね、編集サイドの売り出しかたが微妙に「若者論」くさいんだな。
タイトルもおちゃらけてないし。
この人と私(65年生まれ)が同世代として括られてしまうってとこに、世代論の限界を感じる。


(どうでもいいことだが、なぜか私は中公新書ラクレ」をいつも「クラレ」と読み違えてしまう、「クオレ」が頭に刷り込まれてるからなのか、それとも「クララ」?)