何でこうなるの?

山形さんと室井さんのこの論戦である。
http://cruel.org/other/smoking.html
http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2005/10/post_1e9e.html


タバコの害は科学的に実証されているか、という論戦のようにも読めるかもしれない。
違う。
(実証されているか否かも含めての)「語り口」をめぐる論戦だ。
メディアリテラシー」や「リサーチリテラシー」をもちだす語り口の陥る隘路の典型例と言ってもいいのではないか。


鈴木謙介カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書、2005年)から改めて引いておきたい。

「データ」と称するものが、いかにいい加減かつ恣意的な推論によって導き出されたものであるかについての批判は、これまでにも様々になされてきた。しかし、……「データ」に対する反証を行うだけでは、今度はその反証自体が別の「データ」として機能してしまうという事態を避けられない。
言い換えれば、こうしたデータに対する「証明−反証」合戦は、それ事態がデータの「正しさ」とは無縁な「情報戦」になってしまうということだ。それが情報戦であるならば、その優劣を決するのは、データを受容する側が「なんとなくそう思う」という程度のことであり、そうした人の数の多寡なのである。

(p.107-8)


タバコの発ガン性についての科学的妥当性の検討ということなら、私も興味はあるし、決して知的レベルの低くない論戦が展開されている(あるいは、されていく可能性があった)と思う。
それであれば、いかに白熱した論戦になろうと、意味はある。
なのに、(これほどの知性の持ち主たちであれ)そうならない。
「語り口」をめぐって情報戦が展開されるのは、不毛だ。
「語り口」をめぐる論戦自体が必ずしも不毛というわけではない。
「語り口」をめぐって、データの証明−反証合戦が繰り広げられることが不毛なのだ。
それは結局、データの証明−反証というプロセスの意義を殺す。
サイエンスウォーズは、科学の誤用をめぐる戦争という以上に、科学の誤用をめぐる「語り口」の戦争だったのではないか。
ソーカルのパロディは、科学の誤用をめぐる戦争から、科学の誤用をめぐる「語り口」の戦争への転轍点だったのかもしれない。
転轍しまった後の荒れ地には何も生えない。


何でこうなるの?
平坦な戦場でぼくらが生き延びること。
それはどだい無理な話なのか?