バカだと思われるかもしれない不安
ここやここで書いたことについて、とある学生さんから、こういう素直な感想をもらう(本人の許可を得たうえで一部転載)。
私自身レポートの課題でネットから、コピペとまではいかないまでもバレないように、勝手に改変して写して提出してしまうことはあった。一応アレンジした!といってみても変えたのは文体だけで結局主張していることは丸々パクっているわけで。
「あぁ、俺情けないなぁ…。」
と思いつつもそうしてしまうことがあったのは、センセがブログ内で書かれているように「怖い」からである。
「もしかしたら自分はまったく的外れのことを書いているのではないか」
という不安は、人にもよるのだろうが私にとっては相当に強いものだ。バカだと思われるのではないか。何も知らないと思われるのではないか。(事実何も知らないのだが)自尊心がバカみたいに強い自分はいつもこんなことを考えてしまう。
ネットを自由に使えるようになってからは特に自分の考えを書くのが怖くなった。ネットで検索をかければ自分の考えよりもしっかりとしたものがいくらでも出てくる。
最初から本やネットに載っている偉い先生が書いたような完璧(なように私には見える)な論文なんて書けるわけないのに、実際にそういう論文を見てしまうと、それに劣る論文を書くのが怖くて怖くて。
バカだと思われるかもしれない不安そのものは、割とむかしからあるものだろう。
自分自身の大学生時代をふりかえってみても、バカと思われるのはヤだなあ、という意識をもつことはしばしばあったように思う。
その点で、割と現代的なように思えるリスク管理的な「間違えているかもしれない」不安とは、少し毛色が違う。
ただ、ちょっとおもしろく思ったのは、大学のセンセイに対して、そういう「バカと思われるかもしれない」不安を感じているところだ。
私の大学生時代の場合、それはもっぱら友人とかオンナノコに向けられたものだった気がする。
大学のセンセイに対して、そういう不安を感じたことはあまりない。
まあ、大学のセンセイがオレより頭いいのはあたりまえと思っていたせいもあるだろうが(実態はともかくとしてw)、大学のセンセイとの関係性/友人やオンナノコとの関係性というのが、自分にとってはまったく別種のものだったことがおそらく大きい。
大学のセンセイとの関係性は、自尊心とかそういった類のものを構築する関係性ではなかった。
基本的にはあくまでも、教師‐学生という社会的役割(を果たすこと)に基づく関係性だった。
それに比べると、関係性の「作法」が一元化してきたような気がする。
もちろん、教師‐学生のあいだでも、(相手をバカと思わない)親密な関係性というものはありうる。
ただ、友人関係などとは違って、親密でなければ、その関係性が(うまく・よく)維持できないというものではない。
親密性による関係維持の作法。
それが社会的役割に基づく関係性についても前景化してきたような気がするのだ。
学生さんたちに、授業への要望(私の授業ではなく、授業全般に対する要望)を書いてもらうと「もっと担当の先生たちと仲良くしたい」ってのが何人かは必ず出てくるしさ*1。
*1:いや、こういう「要望」って、私のようなオジサン世代にはちょっとピンとこないのである