森健『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』

たまたま自宅近くの本屋で目にとまり、一気に読んだ。
鋭敏な問題意識に貫かれた良書。
あと半年早く出ていれば、ised理研の議論も、もっと「話は早かった」かも。
つうか、倫理研のだれかが書いた本かと思うほど。
こういう問題提起の声は、できるだけ早く大きくしていかないと、と思う。
著者のサイトは http://www.moriken.org/ に。


前回エントリへのcharlieさんのコメント、

なんだかレポートも、楽したいっていうのもあるんだけれど、それ以上に「間違いたくない」から「無駄に考えない」ことを選択しているのかな、というのは、コピペと関係なく感じるところです

に関連して、一部抜粋。

事実、現時点でもすでにリスク回避に根差した行動は、若い世代に特有のものとして指摘される兆候とも合致する。子どもたちや若い世代に共通する自制的かつ自己保身的な振る舞い、私立学校と塾を合わせた過度な受験戦争、自分自身の興味ではなく資格など安定を中心とした実学志向……。従来からある話に思えるが、個別の取材を通して知った者からすれば、その内実はずいぶん異なる。いずれも発想の原点は「リスク回避」であり、それこそが行動を規定するものになっていたのである。子どもが大人の映し鏡といった言を持ち出すまでもなく、そんな兆候を感じ取っているのは私だけではないだろう。
ライアン教授が指摘している問題は、こうした身近な話題と決して離れたものではない。だが、そこにはもうひとつ補助線を引く必要がある。
人間が主体であるはずの電子機器が、その役割上からいつしか立場が逆転し、支配的な立場となって人間を振り回すという奇妙な現象。こうした「技術決定論」はメールや携帯電話が登場する以前から指摘されていることだが、それが監視的な振る舞いにも及んでいることは若い世代の行動からも見てとれる。2004年春にある雑誌の取材で出会った若者たちは、互いの監視を当たり前のものとして考えていた。相手が出たり返信をするまで執拗に電話やメールをする。恋人や夫婦の関係であっても、信頼の担保としてテレビ電話の利用や携帯カメラによる画像の送信を求める。夜遅くなった際には位置情報を携帯電話で知らせる。電話番号が表示されなければ着信拒否……。こうした行動傾向を若い世代は「普通」だと考えていた。けれども、これら監視的行動を「リスク回避」という言葉だけでは説明できない。そこで「不信」という補助線を引いてみる。すると辻褄が合う。そこにある人間関係は、「信用」ではなく「不信」なのだ。不信をベースにリスクを回避するべく、確実に信頼できる証拠を誰もが求めていたである。
注意すべきは、もともと不信がはじめにあったわけではないということだ。技術によって客観的な信用=証拠が生まれ、その反作用として不信が生まれる。そこで生まれた不信から、自身に降りかかるリスクを避けるため、さらなる信用の強化を求める。そして、このサイクルが結果的にさらなるリスクを生み出すことになる。これはまさに、監視化にはリスクの拡大再生産とでも言うべき構造があるというライアン教授の指摘にもつながるものだ。

(p.282-3)


というわけで、このように補助線を引くと、ここここで書いたことはつながるのである。