『放送メディア研究』3号

http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20050328#p1 で一部紹介した論文の掲載誌が刊行されたようです。
まだアマゾンやbk1では検索にひっかかってきませんが。

放送メディア研究〈3〉特集 情報空間の多様化と生活文化

放送メディア研究〈3〉特集 情報空間の多様化と生活文化

目次立てをご紹介。

デジタルデバイドと日本社会(木村忠正)
メディア利用の分化はどのように進むのか(原由美子
ケータイ・コミュニケーションと「公/私」の変容(辻大介
「モノ=商品」としてのテレビジョン(飯田崇雄)
対談:社会の階層化と視聴者像の変遷(佐藤俊樹・藤田真文)
「テレビを見ること」とは何か(小林直毅)
バラエティ化する日常世界(水島久光)
対談:現代の若者の情報行動とテレビ(斎藤環・藤田真文)


斎藤・藤田対談からメモ。

斎藤 ……。自分自身の内省的な語り口を発達させるうえで、本を黙読する習慣は大いに寄与するでしょう。「自分自身について考える」という身ぶりが暴走すると神経症になってしまいますが、読書の習慣は、神経症にならずに自己言及的に考える作法を身につけさせる力をもったメディアだと思います。……。
 ウォークマンの登場で、風景がBGM付きになったということがあるわけで、そこで一つの分離が起こる。この分離はあくまで「風景」対「音」の二元論。わかりやすい対立です。意識が2つの領域に分かれるのですが、もちろん主体の統一は保たれていますから、風景に行ったり音に行ったりのモードチェンジを楽しむ作法が一般化していった。
 ウォークマンで起こったことは視覚と聴覚の分裂でしたが、携帯電話に至った時点で、この分裂はいっそう徹底化されました。一見、目の前の人と電話の相手という分裂に見えなくもないのですが、実は聴覚のレベルにおいて、目の前の空間とは隔絶した領域が生まれてくるということでもあるのです。つまり、一つの聴覚空間にいながら、それはひとまず切り捨てて耳元の空間に集中して一つの個室を作ってしまうわけです。そういう強力な解離の効果があって、分裂はさらに進んだと言えます。ウォークマンとは壁の厚さがまったく違うという感じですね。

(pp.275-6)


えっと、その線でいくと、ケータイのメールは神経症的なんでしょうか、解離的なんでしょうか? という素朴な疑問はさておき。

斎藤 ……。まさに携帯でつながる瞬間というのは強力な二者関係の磁場ができあがる瞬間なんです。この二者関係の強さは圧倒的で、一種の強制力が働いて、しゃべらされてしまうんですよ。対面しているときは例え1対1で話していても、どこか第三者の視点が働く。携帯空間には第三者の視点が生じないから、相手に強力に引きずられてしまう。

(p.278)


そう、携帯空間には匿名的な第三者が存在しない。
というか、第三者が存在しないがゆえに、実名的/匿名的という差異自体が失効し、ルーマンが次のようにいう匿名的な意味と世界の構成に近づいていくような気もする(どえらい粗雑な引きかただが)。

意味と世界は、さしあたって、そして大抵、匿名で構成される。各人はみな、同じものごとを共に体験している者として、他我という空虚な形において「ひと」として前提とされる。従って〔この匿名の段階では、意味と世界を〕構成する働きは、なお未分化なままであり、万人の間での漠然とした一致という姿で遂行されている。そうであるかぎりにおいては、従って、共にある人々(Mitmenschen)への格別な信頼は未だ必要ではない。同調しない者がいたとしても、その人は共通の世界観を未だ動揺させるには到らずに、むしろ理性的な人間から排除されてしまう。〔意味と世界の〕構成の、かかる匿名の様式に対応しているのは、コミュニケーション・メディアとしては真理であり、知られ方の様式としては、存在者への馴れ親しみ・存在者の自明性である。

(『信頼』勁草書房、一九九〇年、p.29)

意味と世界との構成が匿名で潜在的なままにとどまっているならば、それ自体としては与えられている体験可能性の潜在能力も、世界の極度の複雑性も、意識されずに終わってしまう。この場合には、馴れ親しまれた世界は相対的に単純であり、そうした単純性において相当狭い限界によって確実な世界とされている。もちろん、それでも世界の可能性の複雑性は、現れはするのだが、しかし、馴れ親しみのあるものと、馴れ親しみがなく疎遠で不気味なものとの裂け目として現れるにすぎない。そしてその場合には、馴れ親しみがなく疎遠で不気味なものが、単に闘争の対象か神秘化の対象とされるだけなのである。

(pp.30-1)


でもって、このような匿名的な構成の段階においては必要とされない「信頼」について、ルーマンは次のようにいう。

〔貨幣なり権力なりといった〕これらの各メカニズムが現在において安定化するには、信頼が前提される。従って、出来事の制御と信頼は、端的に機能的な等価物なのではない。出来事の制御と信頼は、複雑性を縮減するために相互に代替可能なメカニズム同士ではないのである。可能な諸々の出来事の制御と信頼は、相補的にまた並立して一層強く求められねばならないのである。
 事態はこうなのであるから、次のように期待されてはならない。いわく、技術的・科学的な文明の発展によって諸々の出来事は制御され、社会的なメカニズムとしての信頼は、物の制御によって代替されて御役御免になっていくであろう云々、と。むしろ逆に、技術的に生み出される将来の複雑性に耐えうるためにこそ、一層多くの信頼が要求されてくる。

(p.26)


このルーマンの議論は今日の情報技術の問題系をどこまで射程に収めうるか。要検討。