何のための携帯か――親と子どもの埋めがたいギャップ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000053-zdn_ep-sci
モバイル社会研究所主催の「モバイル社会フォーラム2005:子どもとモバイルメディア〜わたしたちの役割を考える〜」に関する記事。

フォーラムを見ていて、記者が一番気になったのが「携帯=悪、危険、出会い系」という前提のもとで話を進めている講演者が多かったことだ。
 「学校では携帯の所持を禁止しているのに、親が子どもに携帯を持たせたがる」と嘆くシーンを何度か見かけた。また、フォーラムの最後に行われたシンポジウムでは、「児童の携帯電話所持を法律などで規制できないか」と真剣に議論するシーンもあった。
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 しかしほとんどの人は、「便利だから」「友達とすぐに連絡が付くから」などのメリットを感じているからこそ、利用料金を払ってまで携帯を持っているはずだ。それを「携帯を持つと子どもは出会い系サイトに必ずアクセスする、危険だ」と言わんばかりのトーンには、少なからず違和感を感じた。
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 そういう意味で、聞いていて記者がもっとも共感できたのが、精神科医香山リカ氏のスピーチだった。子どもが携帯を持つのは“連絡が取れて便利”だからではなく、「友達との関係をよくできる」「使っているとさびしさがまぎれる」「携帯がないと、友達の輪に入れない」といった“心の動機”が多いことを指摘。子どもにとって、携帯は「便利で役に立つツール」から「心のツール」になってきている、とする。


端的に、「携帯=悪、危険、出会い系」という前提をとることは私も不適切だと思う。
気になるのは、この記者が「違和感」「共感」というものをもちだしてくることだ。
自分が「共感できる」かどうかを判断基準にたてること自体に、私は「違和感」がある。
学生のレポートや試験の答案をみていて「違和感」があるのも、この「共感できる」かどうかという基準。
少なくともこの文章は、「おともだち」「仲間内」に向けて書かれたものではないはずで。
“共感”を基準にするとき、自分と異なる価値体系の“理解”は難しくなる。
言葉尻をとらえた難癖めくけれども、「共感」をたてなくても、この記事は書けたはずだと思うし。