いや、おっしゃるとおりではあるのだが

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20050722/p2


大学の先生業界は、3週回遅れの人と2週回遅れの人と1週回遅れの人とで構成されているので。
たとえば、ミルの『自由論』を新入生の基礎ゼミで読ませたりするのも、それはそれでいいと思うのですよ。
岡崎京子の『へルタースケルター』を読ませたりするのも。
それは3週回遅れのトップランナーか1週回遅れのトップランナーかの違いでしかない。
私は基礎ゼミでノートテイキングから始めて、パラグラフリーディングやライティングをやったりして終わるので、素に半周遅れでしかないですが。


まあしかし、われながらイタイ文章ではある(w
そのイタさは、80年代的な自意識(サブカルアイロニー?)の黴臭さに由来する。
まあ、いつの時代もおそらく1〜2世代前の自意識・センスというのは黴臭さの漂うものだっただろう。
これが3〜4世代前になると、それなりに埃もかぶりpatinaも出てきて、それらしい雰囲気も漂ってくる(黴臭さもとれてくる)。
80年代のツーンとくる黴臭さが90年代以降にはない。
それはまだ黴臭さを帯びるだけの時間が経っていないということではなくて、たぶん端的に臭いをもちえないのだ(ということにとりあえずしておこう)。
そこでは、patinaは人工的光沢と並列的。
黴臭さは化学合成臭と並列的。
無臭の時代(というより空間か)。
そのなかで、80年代は、嗅覚をもちあわせる最後の人たちに、その黴臭さを忌み嫌われる最後の年代・世代だろう。
何より80年代人自身が、みずからの黴臭さを気恥ずかしがる。
いや、もちろんみずからの黴臭さに気づかずに撒き散らしている(私のような)80年代人も多いわけだが(というか、そっちのほうがはるかに多いわけだが)。


でもだ、それってどうよ、「おれたちゃ黴臭いよな」ってとこから始めないとダメでないの、おれたちは、という気もするのだ。
イタイやつらと言われる覚悟、というか。
黴臭い世界もイヤだが、無臭の世界もイヤではないか。
黴臭さを漂わせることが、無臭に対抗することにはもちろんならないが、かといって、黴臭さを消臭しきれるものでもなし。
何を言うかではなくて、どのように言うか――素で?ネタで?――に嗤った80年代人としては、その嗤いのイタさをかわしきれるものでなし、かわすべきでもなし。
「『マンガもバカにしたもんではないですよ』と反応することも、今ではクリシェのようでちょっと恥ずかし」いのではなくて、もはや今ではクリシェにすらならないことが気が重いのだ。
学生に真剣に「え?卒論のテーマがマンガなんていいんですか?ひとに言うの恥ずかしいんですが」と訊かれたりするに。
ここには、3週回遅れの先生方と今の学生さんの、ある種幸せな邂逅があるのだろうが。