人間関係のメタファ

人間関係の形容はメタファに彩られている。
というより、メタファなくして、人間関係はおよそ形容できないようにも思える。
二項対立で、ざっと思いつくままに列挙すると。

  • 濃い / 淡い
  • 近い / 遠い
  • 密な / 疎な
  • 熱い / 冷たい
  • 厚い / 薄い
  • 重い / 軽い

でもって、現在、これらの形容詞のなかで最もセンシティブな反応がおこるのは、「重い/軽い」の対である。
特に恋愛関係において、これが顕著だ。
先週だったか、「あいのり」を見ていたら、男の子が女の子に告白したあと、「こんなこと言っちゃって、重いかもしれないけど、ゴメン、でもそんなつもりはないから、重く考えないで」というようなことをフォローしていた。
今日もあるブログを見ていたら、合い鍵をもらったカノジョに、カレシが「鍵もらって重〜とか思わない?」「ほんとに重いとか思わない?」と盛んに気にしているようすが綴られていた。


恋愛関係というのは、人間関係のなかでもとりわけ、濃く・近く・密で・熱く・厚い関係であるだろう(おそらくは今でも)。
それはかつてであれば、おそらくは、当然のように「重さ」を伴っていた。
また今でも、おそらくは、多かれ少なかれ伴わざるをえないだろう。
だから、上のような発言が出てくるわけで。
しかし、今、切に望まれるのは、濃く・近く・密で・熱く・厚くはあっても、重くない関係である。


それははたしてどこまで可能なことなのだろうか、また、どこまで「望ましい」ことなのだろうか、ということが最近つらつらと気になっている。
その前に、まずもっての問題は「重い」関係ということが具体的にどのようなことを意味(あるいは帰結)するものであるかだ。
ここを一度きちっと整理して考えなくてはならないのだが、おそらく関係の「重い/軽い」には、responsi-bility が係わっている。
告白する・合い鍵を渡すという“行為”に対するresponsi-bilityは「責任」に該当するだろう。
責任はまさしく「重い/軽い」で形容される。


一方、“コミュニケーション”に対するresponsi-bilityは「応答」に該当するだろう。
コミュニケーションは、接触する、「触れる」ことに類比的なできごとである。
「触れる」という体験は、触れた対象の手ごたえ(対象からの反作用)がないと成り立たない。
目で見ると確かに対象に触れているはずなのに、手ごたえがない。
そうした場合は、対象に「触れた」とは言えない。
むしろ、視覚体験の方が却下され、錯覚とされる(視ることは対象からの反作用がなくても成り立つ*1)。
“コミュニケーション”もまた、「手ごたえ」=「応答」なくして成り立たない。
“行為”は(おそらく基本的に)「手ごたえ」=「応答」がなくても成り立つ。
告白した相手がうんともすんとも言わず、その後も音沙汰なしでも、とりあえず「告白した」ことにはなる*2


「濃い」とか「密な」とかの形容詞は、まずもっては“コミュニケーション”のほうに係わっているのではないかと思う。
つまり、恋愛関係がまずもって求めているのは、“行為”ではなく“コミュニケーション”ではないかと思うのだ。
しかし、そこから「重さ」をなくすことはできるのだろうか。
ずっしりと「重い」手ごたえ。
それはまた、“行為”のみならず、“コミュニケーション”への志向・欲望も満足させるものではないか。
だとすれば、“行為”のアスペクトなくして、“コミュニケーション”に「重さ」をもたせることはどこまで可能なのか。
頻繁で「濃い」「密な」応答によって?
それは「重さ」の代替たりうるのか?


もひとつ気になる人間関係の形容詞に「強い/弱い」があるのだが、これをこの話に絡ませると、もっとややこしくなってわけわからんようになるので、とりあえずもうやめておこう。

*1: ものすごく問題含みの雑な言い方だが

*2: それを「無視」という行為の応答があったと考えてもよいが、単に応答が遅延されているだけとも考えられる。その遅延の途中で、告白した人もしくはされた人が死んでしまった場合、「告白した」という行為は残る=成立したものとみなしうる。しかし、この場合、コミュニケーションは成立したと言えるだろうか