虐待防止の「公共」広告

こういうバナー広告がある。
http://www.interactive-salaryman.com/pieces/invisible_j/main.htm


家族の写真にポインタをあわせると、「虐待は見えません。」「でも、注意を向ければ、発見できるのです。」というコピーがあらわれる。
広告のクリエイティブとしては、よくできていると思う。
しかし。


私としては、こういう「公共広告」はやめてほしい、と思う。
ポインタをあわせて、あらわれる画面の下部には、青アザだらけの子どもの足が写っている。
周囲の人が、たとえばこういうアザに注意を向ければ、虐待が発見できる、というメッセージだろう。


私は、家族の話=個人的(プライベート)な話は、なるべくここには書かないようにしている。
でも今回はあえて書く。


私の子どもの足は、よく青アザだらけになる。
虐待しているからではない。
先天性の血液の病気(血小板減少性紫斑病)で、ちょっとぶつけただけでも、目立つほどの青アザができるからだ。
日常生活に支障がでるほどではないが、原因不明で今のところ完治する方法はない。


青アザができているときに子どもを連れて電車に乗ったりすると、見知らぬ人からよくジロジロ眺めまわされたりする。
虐待を疑われているのだろう。
「あれ、虐待じゃないの」と聞こえよがしに言われたこともある。


ほっといてくれ。
虐待を受けている子どもが、こういうふうに穏やかにニコニコしている、つうのか。
見てわからんか。
バカか、おまえは。


親はまだいい。
我慢できるし、スルーもできる。
大人だから。
虐待を受けてもいない子どもが(いや受けている子どもであったとしても)、おまえのそのひと言を聞いて、どれくらい傷つくか、わからんのか。


ジロジロ見る人、聞こえよがしにつぶやく人、それぞれに「善意」の持ち主ではあるのだろう。
先の広告はその「善意」を促そうという意図のものだろう。
しかし、実は「善意」とは「公共」の場で発動する(べき)ものではないのではないか。


少し話は近未来的な空想になってしまうが、こういう「善意」の人たちが、私たち家族の写真をケータイでとって、警察なり何なりの機関に通報したとする。
(→ id:dice-x:20040308#p1 参照)
その機関が、犯罪などの問題につながりそうな人物の追跡可能性(traceability)を高めるための個人情報データを保管しており、顔写真と照合して、私たち家族を特定したとする。
そして、私たち家族はその機関から干渉を受けることになる。
余計なお世話だ、ほっといてくれ。


もちろん、こういう「余計なお世話」は、個人情報システムを精緻化することによって避けることはできるだろう。
病院のデータとも連携して、アザのできやすい病気かどうかを把握しておき、干渉にのりだすレベルを調整する、とか。
それもひとつの方策ではあるだろう。


しかし、それが問題(たとえば虐待という)を解決する最もよい唯一の方策ではあるまい。
そもそも、虐待は、周囲の人の無関心によって生じるのか。
虐待そのものは、家族のありよう(と家族のおかれている社会のありよう)によって生じるものだろう。
周囲の監視の目を強めることによって、虐待の「発見」は容易になり、ひいては虐待が減るかもしれない。
でも、それは対症療法だ。
問題は、虐待とは別のかたちをとって噴きだすのではないか。
監視システムの精緻化(traceabilityの向上もふくめ)は、むしろそもそもの問題を覆い隠すように作用するだけなのではないか。


先週末のisedの倫理研で、匿名性から生じる問題について、traceabilityの確保できるアーキテクチャの設計で対応すべきでは、という話があり、それに自分としては少し引っかかりをおぼえるところがあったので、このバナー広告をみたのをきっかけに、ちょっと書いてみた。


もちろん、さまざまな問題を一括りにして論じられるわけではない。
問題の種類に応じて、traceabilityを確保していく方策もおそらく必要だろう。
ただ、私としては、「公」的なるものや領域を確保するときに、匿名性というのは、かなり重要な要件になってくるのではないか、と思うのだ。


発言を発言者個人に遡及する(trace)ことなく、取り扱うこと。
いい人が必ずいいことを言うわけではないし、わるい人が必ずしもいいことを言わないわけでもない。
あの人はいい人だから、あの人の意見についていこう、というのは「私」的な意志決定の作法であって、「公」的な意志決定の作法ではない。
もちろん、匿名性は同時に、無責任なふるまいを生みだしうる。
ただそれはおそらく、「公」的なものを確保するための対価だろう。
支払うべき対価に見合う利益(つまり公益public interest)がないとき、あるいは、人びとのあいだで対価の支払いに偏りがあるとき、当然、匿名性を維持するかどうかは見なおされてしかるべきだろう。
そこでは、traceableなアーキテクチャ設計によって、準‐実名主義を採る(ことによって無責任なふるまいから生じる害を減らす)という選択肢もある。


だが、一方で、匿名性の生みだす利益を(再び?)高める方策・選択肢もありうるのではないか。
そして、その選択肢を採るとすれば、「公」的な場で匿名的な「善意」を発動させないシステム――社会的制度・作法(儀礼的無関心のような)であれ物理的アーキテクチャであれ――も考えうるのではないか、と思うのだ。
「公」的な場でのふるまいは、匿名的な他者への「信頼」に基づくべきあって、「善意」に基づくべきではない。
その「信頼」を高めるようなシステム設計。


むーん、やっぱり自分でも何を言いたいのか、訳がわからなくなってきた。
10月のisedの報告までに、頭を整理しよう。