本田由紀『若者と仕事』

若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて

若者と仕事―「学校経由の就職」を超えて


依頼のあった書評かきあげて、さっき送りました。
調査データの分析や使いかたは手堅く、調査手法などによる限界もちゃんとふまえられていて、無理・強引な解釈や結論づけはなされず、禁欲的で落ち着いた議論の運び。
「学校経由の就職」システムを止めて、「教育の就職的意義(relevance)」を向上させるべき、という主張の基本路線にも賛成できる。


実証手続きの面ではそれほど気になるところはない。いくつか「ん?」とか「別の解釈もできるな」とか思う点もあるが、それは措いとくことのできるレベル。
ただ、どうも個人的にひっかかってしまうのは、むしろ政策提言につながる部分。あと、教育の本質的(?)な捉えかたの部分が、たぶん根底的なところで私とは違っていそうなところ。いや、この本自体がうんぬんというより、たぶん本田さんと私の個人的な見解の相違と言ったほうがいいものだろうが。


この本は、日本特有の「学校経由の就職」という〈教育から仕事への移行〉システムが、現在ではもはやうまく機能していないことを、量的・質的データを用いて丹念に跡づけていく。
かつての、特に高校を卒業しての就職の場合、学校が在学中に紹介してくれた企業に就職するというルートが大きな役割を果たしていた。
学校と企業は労働力を取り引きする関係にあり、学校は、特定の企業との信頼関係に基づきつつ、継続的に労働力を供給していく。
送りこむ学生の選択基準は、学校での成績や出席状況・勉学態度であって、仕事に求められる能力や適性を身につけているかではない。
学生にとって、学校はあくまで就職への経由点にすぎず、職業能力形成の場ではなかったわけだ。


こうした「学校経由の就職」は高度経済成長期に一般化する。
そこには、教育(内容)と仕事の乖離という本質的な問題があったのだが、当時の労働需要の大きさなどの要因が、それを覆い隠すように作用した。
だが、産業構造や経済状況の変化にともない、隠されてきた本来の問題が露呈し始めたのが現状である。


だから、教育と仕事の乖離をなくし、「教育の職業的意義」を回復・向上させようという主張はわかるし、私も基本路線としては大賛成だ。
ただ、どうも引っかかるのは、その先だ。一編の論文や一冊の本に、この問題を考えるなら、これが欠けている、あれが欠けている、と無い物ねだりをするのはアンフェアなことは重々承知だが、その欠けているものがけっこうcriticalなものではないか、と思うのだ。
むろん、本田氏がそういうことをまったく視野に入れていないというわけではない。本のなかでも多かれ少なかれ触れられている箇所はある。
そのうえで、あえて思うところを書いてみる。


1つは次のような主張である。

……学校と企業との組織間連携がもたらす表面的効率性を特徴とする従来の「学校経由の就職」を長期的に縮減、やがては廃止してゆき、〈教育から仕事への移行〉を第一義的には個々の若者が自らの責任で取り組む過程として構築し直すことが必要である。

(p.194) 強調は引用者


この主張に反対ではない。反対ではないが、これだけではけっこう危うい。
就職を若者の「自己責任」とする前提として、本田氏は、学校が「教育の職業的意義」の向上という責任を果たすこと、そして、学校以外の専門的な第三者機関(職業安定所のような)を設置して、そこが就職の仲介・斡旋という責任を果たすこと、を挙げている。
これに反対ではない。しかし、それだけで足りるのか。
マクロな経済状況が低迷し、労働需要が小さい状態では、学校と第三者機関がそれぞれの責任を果たしたとしても、どうしても正社員職にはつけない者がでてくるだろう。
この場合も、若者の「自己責任」として切って捨ててよいのか。いや、本田氏が切って捨ててよいと主張しているわけではない。また、切って捨ててよい、という考えかたももちろんありうる。
いずれにせよ、この点についてはさらに政策策定にかかわる議論が必要なはずだ。それなくして、学校が自らの責任を果たし、第三者機関も自らの責任を果たせば、あとは若者の「自己責任」ということにしてしまっては、やはりそれは公的機関(および学者)の「無責任」というものではないか。


もう1つは、教育の「職業的意義」の強調である。
大学も含めて、学校教育に「職業的意義」が欠けていたことは認めるし、その弊害もよくよくわかる。
ただ、本田氏は他の教育「意義」――「即自的意義」や「市民的意義」――にふれつつも、また、それらが截然と分かたれるものでないことを言いつつも、「職業的意義」を強調する。
ただ、その内実が、この本のなかではあまり具体的でない。


「教育の職業的意義」とは何ぞや、というのは、教育学的にはかなり大きな問題であるはずだが、割とあっさりスルーされているようにも読める。
言うまでもなく、教育の「職業的意義」は、必ずしも専門的な職技能の習得に等しいわけではない。
これは、特に大学における「教育の職業的意義」を考えるうえでは、大きな論点になるはずだ。
大学が総専門学校化すればいいとは私は思わない。
むろん、大学の現状に問題は多く、今の大学の半分以上はspecialist養成に傾いていいと思うが、企業にも社会にもgeneralistは必要なはずで、generalist養成のための「教育の職業的意義」というのは、かなり「即自的意義」「市民的意義」に近づいてくるのではないか。
いわゆる教養教育(liberal arts)の立て直し・見直しにつながってくる話だ。


教育の「職業的意義」の重要さは私も現場にいる人間として、よくよくわかる。
だが、今むしろ重要なのは、「職業的意義」をそれ自体として強調するのではなく、「即自的意義」や「市民的意義」とどう連携させ、教育の「意義」自体を高めていくことではないかと、素朴に思う。
これは素朴な観点ではあるものの、実践するとなると、とてつもなく複雑で難しく、現場の心ある人間はそれに多かれ少なかれ日々頭を悩ませているはずだ。
むろん「教育」にできることなど多寡が知れているし、教育が万能だなどとはさらさら思わない。
でも教育を職としてメシを食わせてもらってる人間は、多少なりともこのところで格闘すべきものではないのかと思う。


暴言かもしれないが、少なくとも大学の教育というのは、仕事に役立たない「無駄」を身につける場なのではあるまいか。
悪い「無駄」は勝手に身につくが、いい「無駄」は勝手に身につくものではない。
いい「無駄」のない人生ほど、キツイものはない。
本田さんは、「無駄」な教育をしてきた学校を、「役に立つ」教育をする学校に変えようとしている、ように思える。
私はむしろ、悪い「無駄」を教育してきた学校を、いい「無駄」を教育する学校に変えたほうがいいんではないか、と思ってる。
いや、「役に立つ」教育をすることと、いい「無駄」を教育することとは、別に相互排反ではなく、両立するものだろうと思うのだが、ここのところの違いは私が本田さんと最終的に相容れないところかもしれない。

私は生徒であり学生であった時期に、もっと「意味のある」ことを学びたかった。なぜこんなにも抽象的・断片的で、自分自身から疎遠に感じられることがらたちを、自分の時間とエネルギーの大半を費やして学ばなければならないのかわからなかった。

(「おわりに」p.217-8)


私もわからなかった。ただ、「意味のある」ことは「役に立つ」ことと同じではないとも思う。「役に立つ」ことはわかりやすい、目に見えやすい。「役に立たない」けども「意味のある」ことはわかりにくい、目に見えにくい。「役に立つ」ことに照準をあてるにせよ、「役に立たない」けども「意味のある」ことがあることは、どこかで気にかけていないと、学校教育は息苦しくならざるをえないだろう。
まあ、就職活動に追われて青息吐息の学生を現実に目の前にして、大学の授業は「役に立たない」けど「意味のある」ことなんだよ、などと言えるわけでもない、呑気な話ではあるが。


ともあれ、優れた問題提起の書であることにまちがいはない。読んで学ぶことも多かった(つうか、やはり自分の不勉強を恥じるばかりなり......orz)。
最後にひとつ。大学の経営者たちがよく心すべき箇所。

……仕事の世界からも、より実践的な有効性をもつ教育への要望が高まりつつある兆候もみられる(たとえば、日本経済団体連合会、2004)。しかし、その際に逆に重要になるのは、このような仕事の世界からの期待を前にして、教育領域が仕事領域に一方的に従属する関係に陥ることを回避し、あくまで若者のエンパワーメントを通して間接的に仕事という社会的領域に貢献するという基本前提を貫徹することである。2000年代初頭の日本の教育政策の動向をみると、「教育の職業的意義」の回復という課題についての萌芽的な認識は随所に見出すこともできるが、総じて仕事の世界に追従気味であり、個々の若者のエンパワーメントに対する公共的支援という側面は、自由主義や市場主義、あるいは国家主義の名の下に軽視されがちな傾向にあるように見受けられる。それゆえこの点に関しては、教育自身の存立原理についての方向性の立てなおしが求められる。

(p.203-4)

【追加】5/7
id:oxyfunk:20050506#p1

本田さんの議論は「教育の職業的意義」ありきで議論が展開されているので、その欠落が実証的に示されるのは手続き上は当たり前の結果である。つまり、僕は本著の分析を非常に興味深くと思うと同時に、その分析の前提としての「「教育の職業的意義」の回復」が今なぜ言われなくてはならないのかが十分に説明されていない気もするのだ。………。なんというか、社会科学的な手続きになるほど!と思いつつ、その分析を貫く問題意識の理論的な部分をもう少し読んで見たかった。

同感。