電車の中の化粧

http://www5b.biglobe.ne.jp/~sken/hp/psychology.embarrassment/resarch%20room/kenkyu/kenkyu.kesyo.htm
菅原健介さんのサイトより。


「仲間以外はみな風景」、だから電車内で化粧をしようが、地べたに座りこもうが平気なのだ、とも言うが、見知らぬ他者を風景化して、そこからの視線を感じなくなったわけではおそらくないのだな。
むしろ、仲間うち空間と、見知らぬ他者の空間が截然と分かたれたなかに生きている、ということなのかもしれない。
こちら側の仲間うち空間と、あちら側の見知らぬ他者の空間は、別の世界であって、基本的に無干渉・没交渉であるべきものである。こちらで何をしようが、あちらに「迷惑をかけない」限りは。逆もまた然り。
これは、ある意味で都市社会の儀礼的無関心の徹底化ともいえるかもしれない。
そこでは、自分の行為は先ずもっては仲間うち(空間)の規準によって律せられるべきものとなる。その規準に適っている限り、恥ずかしかったり不安になったりすることはない。
しかし、その規準に外れたときには、仲間うち(空間)から外れたということ自体が、あちら側(見知らぬ他者)からも視線を浴びせられるべきこととして意識化される。規準の内容は何だっていいのだ。問題は、(仲間うちの)規準から外れたということ、それ自体である。
つまり、これは、仲間うちの規準から外れることはよくないというメタ規準であり、そのメタ規準は見知らぬ他者とも共有されるものとみなされている――すなわち、そのメタ規準への違背は、見知らぬ他者からも視線を浴びるべき恥ずかしいこと・不安なこととみなされるている――わけだ。
まあ、コリクツでしかないが、もうちょっと考えてみる価値はあるかも。