広告の「Jポップ」化?


お貸しした『ユリイカ』の増田論文、おもしろかったようで何よりです> id:Albini:20040826#p7くん
さて、この増田聡さんの論文や、Albiniくんが次のように書いてるのを読んで、わたしが思ったのは、広告も90年代に「Jポップ」化したんではないかなということ。
別に、広告に「Jポップ」が多用されるようになったとかいうことではない。

歌詞批判の構造の上で見過ごされがちだが、重要な点は、むしろ言語の非言語性というべき発話の次元においてだ。


「ここBmで行こうかと思うんだけどー。」
「じゃ、メロディ長い<音>にしよっか。」
マチュアバンドの次元においても歌詞は歌詞の特権性を失っている。
それに関して彼らは半ば意識的であり、半ば意識的でない。
歌詞に意味を込める、つまり歌詞を詞として送り出すことへの抵抗感は意識として歌詞を創作する側にある。
では半ば意識的でないと形容したもうひとつの側面とは何か。
おそらく歌詞に限らず現代においてメッセージはその書かれた<ことば>としての機能ではなく、
メッセージそれ自体を最上位の意味としている。
増田さんの論文では触れられていないが、
このメッセージのメッセージそれ自体としての機能の価値を歌詞に見ることもできるのではないか。
歌詞のコンサマトリーな側面である。
それは歌詞に「(笑)」があるとか、椎名林檎の曲名が読めないとかそういった類のものではなく、
容易に変化しうる歌詞、いや、容易に相対化できることが望まれている歌詞の側面とでも言うべきものだ。


ここで、「歌詞」を「(キャッチ)コピー」に置き換えると、広告にもまんまあてはまりそうな気がするのだ。



「ここ、ビジュアルは白味をたてて、すこーんとした感じで行こうかと思うんだけどー。」
「じゃ、コピーはそれ邪魔しないように“Hungry?”ひと言にしよっか。」


こういう感じで広告が作られることが、90年代あたりから増えたんではないかという気がするのだ。
80年代は、ことば(コピー)がもっと前面にたっていた、と思う。
糸井重里とか中畑貴志とか、有名コピーライターが徒花を咲かせた時代だったというせいももちろんある(といっても、浅葉克美とか細谷巌とか、有名アートディレクターだって負けないくらいいたわけだが)。
ただ、たぶんそれだけではない。
コピーライターはまずコピーを考え、デザイナーはまずビジュアルを考え、それを足しあわせて(むろん単純な足し算ではないが)、広告にする。
かつてのそうした広告制作の作法が、徐々に変わっていったのではないか。
こうした感じの広告にしよう、というアウトプットのイメージがまずあって、そのなかにあてはまりのいいことば(コピー)を割り出していく。
何というか、微分的な広告作法というか。


わたしが広告代理店に勤めていた90年前後には、キャッチコピーのない広告がコピーライターズクラブの賞をもらうケースが出てきた。
確か、コピーライターのクレジットも入っていたと思う。
そこでのコピーライターの仕事というのは、コピーを作るより以前に遡って、コピーを入れるかどうかの判断という水準で評価された。
コピーライターは、もはや言語的メッセージを制作する職ではなく、広告というメディア――広告というものの身体性(kinesics)――がいかに効率的に機能するように組み立てるか、そのためのいわば「職工」のひとりになったわけだ。
ことば(コピー)は、もはや広告を駆動させるエンジンたろうとしない。
むしろ、広告という身体のなめらかな作動をサポートする「関節」「歯車」のひとつとなった。
動力をいかに効率よく伝達できる「歯車」を設計するか。
それがコピーライターのしごとになった(がゆえに、効率よい伝達を阻害する「歯車」ならないほうがよい、という判断が成り立つ)。


こうした広告作法をあからさまにやってのけたのが、佐藤雅彦というCMプランナーだ。
NECの「バザールでござーる」。
JR東日本の「ジャンジャカジャーン」(小泉今日子)。
湖池屋ポリンキーの「三角形のひみつはね」。
サントリーモルツの「うまいんだな、これが」(和久井映見萩原健一)。
コピー(ことば)だけを見れば、はっきり言って、何のくふうもない。
彼の広告作法の主眼は、キーワード(商品名含む)をいかに効率よく徹底的に受け手にたたき込むか、ということにある。
そこでたたき込まれるのは、キーワードの意味(メッセージ)では決してない。
むしろ、キーワードそのもの――シニフィエなきシニフィアン――だと言ってよい。
であるがゆえに、彼は広告の物語世界やストーリー性(これらはメッセージの意味の位相にかかわる)にまったく頓着しない。
照準されるのは、広告身体をいかに効率よく回転させるか(高速回転できるような歯車=コピーを整形するか)、そのアルゴリズムだ。
「データベース消費」(さしあたりは広告商品のではなく、広告それ自体の)を刺激するのは、そうしたアルゴリズムであって、物語ではない。


アルゴリズムには深度がない(スーパーフラット)。
だから、それを「読んで」もおもしろくはない。
深読みのしようがないからだ。
アルゴリズムは「動かして」はじめておもしろい。*1
佐藤雅彦の『毎月新聞』とか『プチ哲学』とかを「読んで」も、ある意味でつまらないのはそのせいだ。
おもしろく読めるとすれば、アルゴリズムそれ自体を読むのでなく、アルゴリズムを抽出しようとする試みとして読むときだ。
佐藤雅彦の書き物をおもしろがる社会とは、まさにアルゴリズム化(≒心理学化脳科学化)する社会なのだ。


佐藤雅彦は、アルゴリズムの利用に自覚的な人、つまり、アルゴリズム(の作動)をメタの立場から眺めておもしろがる人だった。
メタの立場にいる人であるがゆえに、オブジェクト(対象)としての広告には執着せず、アルゴリズムそのものへの追究へ移っていった(今では慶応大の教授だし)。
今をときめく若手広告クリエイター、佐藤可士和多田琢らは、そうではない。
むしろ、アルゴリズムの所在をいわば本能的に嗅ぎ分け、オブジェクト内在的なレベルで洗練させて――ある意味では佐藤雅彦以上に――みせる。
アルゴリズムの)香具師としての洗練というか。
洗練された香具師
そうした語義矛盾的にも思える存在を、メタの人、佐藤雅彦は「洗練」とは呼ぶまい。
メタから離れてベタになることは「オシャレ」じゃないからね。
その点で、佐藤雅彦は広告における80年代の虚構化と90年代の動物化を架橋する存在であったわけだ。



*1:アルゴリズム体操」を見よ。アルゴリズム体操のしかたが書かれた本を読んでも、たぶんまったくおもしろくないだろう。アルゴリズム体操はやってみてはじめておもしろいのだ(見るにせよやるにせよ)