団塊/新人類/団塊ジュニア


そのなかにあった『すばる』90年1月号に、浅田彰インタビューが載っていた。
タイトルは「世紀末をこえて」、聞き手は渡部直己
いかにもという感じですが。
何となく使えそうな気もする箇所をクリップ。

――浅田さんは、たとえば、「僕は時代の感性を信じている」という、なかなか鮮やかなメッセージと共に颯爽と登場したわけですが、現在についてはどうですか。お話をうかがえていると多分に悲観的なニュアンスが感じられますが……。
浅田 あんなの、誰かが適当に帯に書いたんじゃない?
――たしか、本文にもありましたよ。
浅田 そうかな。ただ、本文では文脈上の限定が付いていたはずだと思う。
――もちろんグローバルに信じているということではなかったのでしょうが、あの一句が、当時の若者たちの比較的良質な運動神経にものの見事にフィットしたという面はあるわけですね。その点、現在の若者たちについては、あの種の見栄はもう切りようがないということでしょうか?
浅田 とにかく、あのときの感じで言うと、やはり反全共闘という受け取られ方が主だったと思う。全共闘というのは大した理念を持っていたわけではないにせよ、その敗北の体験をネガティブな根拠とし、そこからいわば虚の理念を捏造して物を言うことが続いていた。「感性」という言葉は、そういう奇妙な理念に縛られないで、もっと肯定的に動いていこうという意味で受け取られたと思います。
ただ、そういう受け取られ方には、全共闘の敗北の後遺症という面もかなりあったと思う。つまり、直球でメッセージを投げると痛い目に遭うから、糸井重里のように、斜に構えて、からめ手から感性に訴えようという感じになってくる。それは、高橋源一郎から僕なんかを経て中森明夫いとうせいこうまでずっと続く世代、とりわけポスト団塊=ポスト全共闘の新人類世代の感覚で、それがポストモダンのアイロニカルな記号のゲームを支えてきたんですね。
ところが、この後に団塊ジュニアというのが出てくる。この世代は、まったく怖いもの知らずだから、平気で直球のメッセージが語ってしまえるわけです。それを予告する典型的な例が『とらばーゆ』のCMで、吉田拓郎の「人間なんて」のリメイクを使っているんだけれども、もともとある種のパトスを裏に秘めた歌だったのが、パトスの部分はきれいに洗い落とされて、「私が一番かわいい」、「私にキス」という非常にストレートなミーイズムのメッセージ・ソングになって流れている。これは、団塊世代のストレートさを衛生無害化してリメイクする団塊ジュニア世代のストレートさの前兆ではないか。そしてブルーハーツ吉本ばななもまさにその流れだと思うんです。これは強い。新人類世代は、やはり斜に構えていたので弱いわけです。
――そうですね。投手だって、カーブばかりではもたないわけですものね。
浅田 パロディでは一部にしか受けないし、アイロニーがなくなるとただの「優雅で感傷的な日本野球」になってしまう。しかし、ブルーハーツとか、吉本ばななは、バカの強みというか、怖いもの知らずの直球だから、百万のオーダーでパワフルに伝わっていく。よくも悪くも、骨太な直球を投げる人たちが出てきて、これが団塊ジュニアに向かって非常にアピールしているわけです。
――サントリーの缶コーヒーの宣伝に、「普通のどこがいけないのっ!」と二段がまえで居直るCFがあって、新人類の時代だったら片仮名で「フツー」ですけど、あれはもう完全に感じですね。
浅田 ただ、それはあくまでもリメイクだと思うんです。つまり、ポストモダンな変化球のゲームは飽和したけれども、今さら全く新しい直球を投げるのは難しいから、当面はモダン華やかなりし時代のものをリメイクして、しのいでいく。アメリカなんかは、まさにそうでしょう。ポストモダンの時代には、このあいだ死んだバーセルミみたいに、アイロニカルなコラージュなどをやっていた。しかし、その後から、田舎くさい「アメリカ青春小説」というのを書く連中がぞろぞろ出てきた。あれは一定の方法によるリメイクです。
――大学でちゃんと、それこそストレートに「文学」を学んだ上で、やるわけですね。
浅田 大学の創作学科でフィッツジェラルドからヘミングウェイから全部読み、いろいろなパターンにしたがってリライトする練習をして、作家になる。昔は男女の愛だったのを男同士にすれば新しく見えるかのように思って、リメイクしたりするわけですね。そのナイーブさたるや恐るべきものだと思う。
吉本ばなななんかも、富岡多恵子の言ったように、昔風の人情ものなんです。しかし、少女マンガ風の空虚な雰囲気を借りてきて新しく見せる。それと、セックスの話をするとどろどろするから、食べる話で置き換える。つまりベッドルームをキッチンに置き換える。もちろん、『サラダ記念日』でも同じことです。それで、まことしとやかにストレートな純愛物語を語るわけでしょう。これは、吉田拓郎の歌の背後にあったどろどろしたものが『とらばーゆ』のCMでは全く出てこないのと通ずると思う。気分がいいといえばいいけれど、いったいこんなに明るくていいのか。(笑)
――そういえば、長島一茂の第一印象もそうですね。単に明るいだけで。
浅田 彼の父親は、ある種、常軌を逸した動物性を感じさせたけれど、息子にはそんな要素はない。単にパワーがあるだけでしょう。


――それで、団塊の世代がそのパワーの内容を埋めてやる必要があるんですね。吉本ばななにしても、長島一茂にしても、二世のコンセプトは、結局のところ、絶対に父を超えないという安心感であり、それを皆が共有しているという面があるんじゃないでしょうか。
浅田 二代目ブームが至るところを覆いつくしている。天皇家に何か象徴作用があるとすれば、結局、そういう代替わりに基づく家族共同体への回帰を最終的に象徴し、かつ正統化した点にあるのではないか。あそこでも、息子は亡き父のカリスマを決して超えられない。
――実態としても、土地がないから二世代住宅で住まざるを得ないわけですものね。
浅田 モダンな高度成長期には、一応ゼロから出発した夫婦でもマイホームが持てるという幻想があり、ものすごい通勤時間を超すととしてであれ、それは実現されていた。ポストモダンな時代には、女性もスタイリストとかデザイナーとかいった片仮名の職業で自立するというシングル幻想があったけれども、それは幻想に過ぎず、現実には非常に日本的な男性支配が持続しているから、その中で女性もやはり疲れてくるんですね。
――で、「しば漬けたべたい」ですか。
浅田 とくに俵万智以後、キャリアウーマンといいながら苦しい思いをするのなら、むしろばかな男でもひっかけて、まことしやかに家族ゲームを演じて見せれば、もっと楽ができるのに、という気分が広がり始めた。それは明らかに矛盾の先延ばしに過ぎないけれども、しかし、少なくとも自分の母親の世代のフェミニストやキャリアウーマンが痛い目に遭ったのを見てきた今のハイティーンやOLは、アイロニカルにではあれ、家族に回帰するという選択をしている。しかも、家と土地の相続を目指して、あえて世代間の縦の統合にまで身を寄せていく。男だって同じことです。これには経済的な理由があるから、ただの流行じゃないですよ。そういう人が俵万智吉本ばななを読む。

(p.180-2)


2ちゃんの「アイロニー」から「ベタ」への転換というのも、(10年遅れの?)新人類世代から団塊ジュニア世代への移行とみなしうるのだろーか。