脳科学主義および心理主義の死角

少し話を一般化して、この手の問題を考えるにあたって、「なぜ社会(学)的位相への目配りが必要か?」を一くさり。
私が学生さんに、社会学の領分を説明するときによく使う例を引いておこう。
たとえば、ある集団における差別意識の実態を調べるために、アンケート調査をおこなってみたとする。
「あなたは○○のような人たちを結婚式に招くことをどう思いますか?」
「あなたは○○のような人たちを自分の子どもと同じ学校で学ばせることをどう思いますか?」
こういう質問をして、回答が「OK」ばかりで、「よくない」とか「いやだ」とか、差別意識をもっていることを示す回答はひとつもなかったとする。
調査の信頼性の問題はとりあえずおくとして、ま、この回答はきわめて信頼できるものだとしましょう。
つまり、ひとりとして――個々人の心理状態としては――差別意識をもっている人はいない。
では、この集団で、実際の行動面で「差別」はおこりえないか?


そんなことはない。
どういうことか?
Aさんは、(1)「○○の人たちを自分の結婚式に招くのはイヤだとかいうことはまったくない」と思っている、とする。
しかし、(2)「他の人(世間の人と言いかえてもよい)の大半は、自分の出席する結婚式に○○の人たちが同席するのはイヤだと考えているだろう」とAさんは思っている、とする。
(1)と(2)は、明らかに両立可能な信念(belief)である。
(2)の信念の結果、Aさんは、個人的な信念(1)の位相では差別意識をもっていないにもかかわらず、他の人が嫌がるだろうから・他の人の迷惑になるから、といった理由で、○○の人たちを結婚式に呼ばない=実際の行動面では差別が現象する、ことがありうる。


つまり、だれも個人的信念のレベルでは差別意識をもっていなくても、差別がおこる(あるいは差別はなくならない)ことはありえるのだ。
これは机上の理論だけの話ではなく、たとえば婚外子差別の実体験談を聞くと、「私自身はそう思っていないが、他の人が/世間が云々」でお葬式や結婚式によばないというのは、むしろありふれた話だ。
個人の心理状態に焦点をあて、集団をその総計としてとらえるパーソナルな心理主義は、この(2)の位相とそこから結果する社会現象を見落としてしまう。
interpersonal / social psychologyの存在理由はそのことにあり、社会学の基本命題――社会とは、要素(member)を寄せ集めた集合(set)ではなく、有機的なつながりをもつシステムである――はそのことを言い表している。


ある命題pに関する個人Sの信念状態の記述
S believes p


だけでなく、その命題pを他者Aがどう思っているとSが思っているかの記述
S believes that A believes p


そして、さらに高階の信念記述
S believes that A believes that S believes p
S believes that A believes that S believes that A believes p
…(以下同様)…


が社会関係のなかでの人間(の行為)を記述するには必要であり、また、n-1階までの信念状態が同じでも、n階の信念状態の違いによって、結果する行為が違ってくることは、ゲーム理論の示してきたところでもある。
このあたりは深みにはまるとずぶずぶ落ち込んでいってしまうので、このあたりでやめておくとして、さて。


こうした階梯的な(入れ子型の)信念状態もまた、他者への/からの視線を組み込んだ個人の信念状態(心理状態)であるにはちがいない。
それは、神経や脳の生理・物理学的状態に(何かしらのかたちで)対応づけられる、とも考えられる。
いろいろ異論はありうるだろうが、ここではとりあえず対応づけられるものと前提しておく。
では、社会(学)的位相にある現象や問題を、脳科学神経科学(ひっくるめて自然科学としておこう)的位相におきかえて、考えつくす・答えつくすことは(理論的にみて)可能か?


無理だ。
一例をあげよう。
Aさんの頭上から植木鉢が音もなく落下してきた。
Aさんはそれに気づいている様子がない。
Sさんはそれに気づいて「あぶない!」と大声をあげた。
そして、
【ケース1】その声を聞いて、Aさんは身をかわし、事なきをえた。
【ケース2】その声を聞いて、Aさんは体がすくみ、植木鉢の直撃を受けて、死んでしまった。


いずれのケースでも、Sさんは「Aさんはその声を聞いて危険を回避するだろう」と信じていた、としよう。
つまり、ケース1でもケース2でも、Sさんの信念状態(心理状態)は
《α》 S believes p (= A will do such-and-such by the utterance)
と記述できる。
したがって、脳や神経の生理・物理学的状態も同一である。
ケース1では、SさんはAさんを死なせてしまったことの責任を言うまでもなく問われえない(死なせていないのだから)。
しかし、ケース2では問われうる状況にある。


ここで、ケース2が、ケース1と同じ脳・神経状態にあることをもって、SさんはAさんを死なせてしまった責任を不問に付されうるか。
悪意があった(大声で体をすくませてやろうとこっそり思っていた)わけではないことは脳・神経状態からわかるから、責任は軽減はされるだろう。
ただ、体をすくませてしまう結果になりうることに思い至らなかった責任は、やはり問われうるものとして残る。
そこに思い至れば、黙ってAさんを突き飛ばすなり、何なり、死なせてしまわずに済んだやりかたをとれたはずで、その可能性がいかにわずかなりとも残る限り、いかに軽微なものであれ責任は問われうる。
ここで、責任を問う際に問題とされている心的状態は、次のように記述されるものである。
《β》 S does not believe not-p


言うまでもなく、《α》の記述に対応する脳・神経の状態と、《β》の記述に対応するそれは、同一である。
しかし、《α》の記述を採るならば、行為責任が問われない(軽減される)方向へとかたむき、《β》の記述を採るならば、問われる方向へとかたむく。
いずれの記述が適切であるか。
それを決める規準は、Sさんの脳・神経の状態のなかにはない(《α》も《β》も記述している脳・神経の状態は同じなのだから)。
よって、脳・神経の状態をいかに精密に測定しようとも、SさんがAさんを死なせてしまった責任を問われるべきか、問われざるべきかには、答ええない。


ま、こんな回りくどい言いかたをしなくとも、自然科学は価値や規範をあつかえない――事実から当為は導出できないという倫理学でおなじみのテーゼ*1――と言えば済むだけの話ではあるのですが。
自然科学のやりかたで「実証」できることと、できないことがある。
このごくごく当然のことが、なぜ自然科学者の一部の人たちにはわからず、また、そういう人たちの言うことを「科学的」と鵜呑みにしてしまう人たちがいるのか。

*1: サールなんかは導出できると言いはりますが