前回の補足

「自己責任」論の話ですが。
「個人」と「社会」(「世間」でなく)は、そもそも利害が対立するものだとすれば、「自己責任」はその利害調整の局面において問われるべき、と述べた。
どこまで社会が責任を負うべきで、どこまで個人が責任を負うべきか。
その比較考量こそが、妥協点の見きわめこそが、「自己責任」論の本筋であるはずだ。
その際のひとつのポイントは、今回の問題のみをみて、「あなた」の自己責任や「かれら」の自己責任を問い質すだけでなく、別の問題が「わたし(たち)」に生じたとき、その自己責任がどこまで問われてしかるべきものと考えるかにあるのではないだろうか。


病気になった場合を例にとろう。
ある人がタバコを吸い続けていたために、ガンになったとする。
その治療費の一部を健康保険で負担する(=「社会」が負担する)のは、是か非か。
「社会」的にタバコの危険性は十分に広報されていたはずだから、それでも愚かにもタバコを吸い続けてガンになった人は「自己責任」であり、全額自己負担で治療すべき、という考え方もあろう。
そのようにすれば、タバコを吸わない人の保険負担料は軽減され、「社会」的にはよしとされるところも大きいかもしれない。
ただ、それならば、美食を続けて糖尿病やら何やらを患った人にも、同じ「自己責任」を問わなければ、おかしいだろう。
その他、もろもろの病いについて、私たちの「社会」は同様に、自分たち自身の責任=「自己責任」を問うのですね?
そういう「社会」にすることに、私たちは合意するのですね?
「自己責任」論が問い質すべきは、目の前にいるガンになった喫煙者である以上に、そのことであるはずだ。


人質になった「かれら」を問い質す「自己責任」論は、はたしてどこまで「わたし(たち)」自身を問いえているのだろうか。
「世間」の論理で問い質すのならば、少なくとも「自己責任」なる論理はもちだすな、と私は思う。