「自己責任」と「世間」

イラク人質問題をめぐって、あちこちで「自己責任」論を目にする。
彼らの(自己)責任や政府・国の責任やその他うんぬんについて、どうのこうの言いたいことは私にはない。
ただ、それをどうのこうの言う議論について、ちょっとおかしさを感じるところがある。
「自己責任」というのは、「個人」(対「社会」)を単位とする思考法に属するコンセプトだろう。
首相の言いぐさに代表される「いろんな人に迷惑をかけて」うんぬんという語り口は、そこに属していない。
「私にやましいところは何もないが、世間を騒がせたことにお詫びして辞職する」といった発言に典型的にみられるような、(阿部謹也氏のいう)「世間」を単位とした思考法に属する語り口だ。
「個人」対「社会」という軸にあるはずの「自己責任」を、「世間」という別の軸をもって問うのはフェアなのだろうか。
そもそも前提となる軸が食いちがっているのだから、建設的・生産的な議論がなしうるとは、私には思えない。
「自己責任」を問い(質し)たいのであれば、「世間」ではなく「社会」をもってすべきだろう。
そこのところに自覚的な議論がどれほどなされているか、私は疑問に思う。
「社会」は「世間」ではない。
「世間」のなかに、行為責任を明確に帰責しうるような「個人」はいない。
行為責任は集団(「世間」)が負うのだ。
一方、「個人」対「社会」は、そもそも必ずしも利害が一致しない、対立的な関係にあるものである。
「自己責任」というコンセプトは、その対立関係のなかでしか有効でありえない、活かしえないものであるはずだ。
個人と社会の利害の対立をどう調停するか。
そのなかでこそ機能するのが「自己責任」というコンセプトであり、用語である。
「世間」の感情・論理でもって人質となった人々を問い質すことの適否はさておくとして、少なくともその「世間」による問い質しがなされる際に「自己責任」ということばをもちだすのは、私にはフェアな語り口とは思えない。