プリクラ的監視社会

ケータイやネットで簡単に映像通信ができるようになったら(すでに半ばなりつつありますが)、既存のコミュニケーションはそれに代替されるようになるか?
わたしはあまりそうは思わない。
もちろん、旅行中の留守宅や、ひとり暮らしをしている老親の居宅をモニターするとか、遠方にいてめったに会うことのない友人や親戚とテレビ電話するとか、これまでになかった形態の利用・ニーズが掘り起こされる可能性は、十分にあると思う。
しかし、これまで音声通話や対面会話でおこなわれていたコミュニケーションが、テレビ電話などの映像通信に代替されていくかというと、その点はどうかと疑問に思う。


以前、テレビ電話を実験的に導入した京阪奈地区の話を聞いたことがあるが、結局、子どもが友だちとジャンケンをしたりして遊ぶのに使うくらいで、たいていは映像をオフにして、従来通り音声通話のみで使われていたという。
理由は簡単明瞭。
部屋が散らかっていたり、化粧していなかったり、場合によっては、バスタオル一枚で電話にでたりすることもあるわけだから、その点で音声だけの電話のほうが気楽なわけだ。


また、携帯電話を使い始めた(または普及した)ことで友人や家庭での対面会話が減ったか、あるいは、メールを使い始めたことで電話や対面会話が減ったか、というと、これまでの調査研究ではそうした傾向は確認されていない。
新しいコミュニケーション・ツールは、既存のコミュニケーション(対面会話など)を代替するのではなく、プラスアルファとして用いられ、コミュニケーションの総量をむしろ増やす傾向にある。
実際、友人関係においても親子関係においても、対面の会話、携帯電話での会話、メールの頻度は、それぞれ正の相関を示す。
この点で、もともとコミュニケーションの活発な対人関係は、新しいコミュニケーションメディアの導入・普及によってより活発化し、不活発な関係はそのまま不活発にとどまるものとみられる。
したがって、コミュニケーションの活発/不活発の差は広がるだろうが、新しいメディア(たとえばメール)の普及が、既存のコミュニケーション(対面や電話での会話)を単純に浸食・代替していくというわけではない。
映像コミュニケーションについても、やはり事情は同様に進展していくのではないか。


とはいえ、たとえばケータイメールの普及は、(特に女性の場合に顕著だが)ケータイによる音声通話の頻度をある程度減らすように作用した形跡がある(これはいくつかの調査で確認されている)。
全面的代替ではないが、メールの普及以前に音声通話が担っていたコミュニケーション機能の一部が、部分的に代替された。
それは、いわゆる「世間話」や「そのときどきにあったことや気持ちを伝える」といった、特に目的や用件をもたないコンサマトリー(即時充足的)なコミュニケーションであり、いわばコミュニケーションによって“つながる”あるいは“つながりを確認する”こと自体が目的のコミュニケーションだ。
ケータイの音声通話/メール利用の目的・理由を比較したいくつかの調査でも、このことは確認されている。
つまり、メールという新しいメディアは、音声通話(や対面会話)と棲み分けるニッチを見いだしたことによって、急速な普及をみたわけだ。


では、こうしたニッチ(棲み分け)が映像コミュニケーションの場合に見いだされる可能性は(どこに)あるか。
ひとつ考えられるのは、「プリクラ」的コミュニケーション文化の延長線上での利用だ。
おそらく「写メール」などのケータイカメラ利用が、現在、若者に人気を博している理由もそこにある。
ちなみに、昨年秋に関大生(社会学部)を対象におこなった調査では、カメラ付きケータイの保有率は74%。
保有者のうち撮った画像を「メールで友人に送ったり、交換したりする」のは、よくする5%、ときどきする46%、あまりしない22%、ほとんどしない27%である(また、その頻度はやはり女性のほうが有意に高い)。


「プリクラ」とは、友だちとの“つながり”を可視化し、記録し、確認するメディアといえるだろう。
友だちとの“思い出”を記録・記憶するという以上に、おそらくはその意味あいのほうが強い。
過去の時間を記憶するのではなく、今ここでの“つながり”を確保・確認するメディアということだ。
プリクラそのものについてではないが、96年に(ちなみに「プリント倶楽部」の発売は95年)首都圏の中学・高校・大学生を対象に「写真」に対する意識を調査したことがある(水野博介・辻大介「若者の意識と情報コミュニケーション行動に関する実証研究(1)」/「同(2)」、『埼玉大学紀要 教養部』32巻2号/33巻1号、1996年/1997年)
その結果は次のとおりだった(いずれも肯定回答率)。

  1. 写真にしておかないと思い出はすぐ色あせてしまう
    中43%・高41%・大33%
  2. 友だちといっしょの写真は友情を目に見える形に変えてくれる
    中63%・高58%・大48%
  3. 友だちと写真をとることそのものが楽しい
    中77%・高74%・大78%
  4. 写真は一人で見るより、いっしょにとった人と見て楽しむものだ
    中80%・高80%・大75%


これをみると、「思い出」よりも、友情の可視化や、友だちと写真を撮る・見ること自体が楽しいというコンサマトリーな利用満足のほうが、やはり肯定回答率が高くなっている。
つまり、写真・画像は、つながる(関係を確保し維持する)ためのネタ=手段であるわけだ。
学生や卒業生と飲んでいても、ケータイの画像を見せて、「これ、だれだれとこれこれのときに撮ったやつ」とか、「この横に写ってるのが、だれだれのカレシ」とかいう話をお互いにけっこうやっている。
だから、日頃けっこう会うことのある間柄では、画像を見せ合いっこすればそれで済むので、メールで画像を送ることは少ないともいう(見せてもらった画像を「それ、オレもほしい、メールして」というのは割に見かけるが)。


この延長線上で、短い動画をメールで送り合うようなことは、けっこう一般化していくかもしれない。
そのとき重要なのは、つながれるかどうか(つながるネタとしておもしろいかどうか)であって、画像・映像の中身は副次的なものでしかない。
その点でちょっと気になるところがある。


カメラ付きケータイは、画像(映像)撮影をいつでもどこでも可能で手軽・気軽なものにした。
このケータイの「視線」が、私には気になることがときどきある。
私は大学の近くに住んでいるので、スーパーやコンビニで買い物をしたり、子どもを連れて電車に乗っているときなどに、どうも私の顔を知っているらしき学生さんに出くわすことがある。
履修登録者400人以上の大講義をもっていると、向こうは私の顔を覚えていても、私は向こうの顔を覚えていない。
でも、私の顔を見て「あれ」っという表情をしたり、隣にいる友だちとひそひそ話をしたりするので、たぶん私を知っている学生さんなんだろうなーというのはわかるわけだ。
そのとき、ケータイがこっちを向いてたりすると(その大半はたまたまメールをチェックしてたりするのだと思うが)、すごく気になる。
安売りの刺身を買ってる姿を撮られたり、子どもの顔を撮られたりするのは、やっぱりいい気がしないから。
それでもって、「これ、ツジせんせー」とかいうメールが知らないあいだに、友だちの友だちの友だちの…というかたちで広がっていってたらいやだなー、と(被害妄想めくが)よく思うのだ。
まあ、安売りの刺身を買ってるのが広まるくらいならいいのだが、自分の知らないうちに何か恨みをかっていて、子どもの写真がたとえばチャイルドポルノに改竄されて出回っていたとしたら...
今のところは被害妄想にすぎないが、今後ありえないとはいいきれまい。


仮に、私をあまり快く思わない人物が、その手の画像や映像を作って、友だちに送ったとしよう。
本人は、ちょっとしたイタズラのつもりで、友だちに話のネタ(“つながる”ためのネタ)を送っただけだとする。
その友だちもネタのつもりで、別の友だちに転送したとする。
この転送が繰り返されていくうちに、誰にもさほどの悪意はないのに、いつの間にか画像・映像付きの「うわさ」が広がっていく。
それを受けとった人のだれもが、これはネタ(本当ではなく作りごと)だと思ったとしても、つまり、信憑性は欠いていたとしても、そのターゲットにされた私や私の家族は、まちがいなく風評被害をこうむるだろう。
むしろ、ネタであると思われたほうが、気軽にそうした(画像・映像付きの)「うわさ」は広がっていくだろうし。
自分がアイコラのターゲットになったと考えればいい。
ほとんどの人はアイコラを見て本当だとは思うまいが、だからといって、アイコラされた当人にとって不愉快であることに変わりはない。
信憑性とは別の、ある種の「リアリティ」を、画像・映像はもつ。
そのリアリティゆえに、声や文字で(=ことばで)「うわさ」が広がった場合以上に、画像・映像の「うわさ」は問題が大きいのではないか。
数年前に、ネットであるチェーン店の牛丼にカエルが混入していたという「告発」がなされて話題になったことがあったが、仮にこれが画像付きのメールで(たとえ合成された写真であることがまるわかりだったとしても)「うわさ」になったとしたら、それを見て食欲をなくす人は、文字だけの「告発」より多かったのではないだろうか。


ネットやケータイなどの電子的なコミュニケーション空間は、いわゆる公/私の境界があいまいなところがある。
ホームページやアップローダに画像をあげる場合には、まだ少しは「こういう画像を不特定多数の目にさらすのはやばいか」というような意識がはたらくかもしれないが、“ネタ”として知り合いや友だちにメールを送るときには、その意識はさらにはたらきにくいだろう。
若者に公的な状況性への認識が希薄化しているのではないか、そのこととケータイの利用が関連しているのではないか、という指摘もある(正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、2003年)
メールのようなパーソナル(私的)なコミュニケーション‐ルートをたどって、画像・映像の「うわさ」が広がっていった場合(しかも、だれにもさしたる悪意はなく、信憑性がないことも認識されつつ)、それに対して何かしらの法的対応はなしうるのだろうか。
私は法律には疎いから、その辺のことはよくわからないけれども。


ケータイなどで画像・映像がいつでもどこでも撮影可能になることによって、監視社会が進むというのは、まあ比較的よく言われることではあるだろう。
1年前に在外研究でロンドンにいたとき、イギリスの新聞でも日本のカメラ付きケータイについて次のような記事が掲載されていた(The Independent, 14 October 2002)。

As well as being fun, the picture phones are finding serious applications. Famously well-ordered, Japan has less reported crime than the West, but street crime is rising and investigators are happy to enrol any new help - which is where the camphone, now carried by more than seven million people in Japan, has found a role. Police chiefs in Osaka, the country's second biggest city, recently agreed that citizens could wirelessly e-mail them pictures of suspects if they came across a crime.


こうした「ハード」な監視社会化は、「市民の安全」とか「治安維持」とか、いわば大きなテーマ・問題として目につきやすい。
その一方で、その陰に隠れて(?)、プリクラ的なノリによる「ソフト」な監視社会化も進行していくのではないか。
それを「監視社会化」と名指すことの適否はあろうけれども、「ハード」なそれより「ソフト」なそれのほうが、今後の社会(学)的問題としては大きくなりそうな、そんな気もする。