浪花節的非分節性

浪花節では「歌う」ことは厳しく禁じられる。「節を語る」。節=メロディは歌われるのではなく語られるのだ。つーか「歌」と「語り」の二項対立でしか「声の実践」が分節できない視点というのは,どうしようもなく西洋近代的な認識枠組ではなかっただろうか。


「節を語る」。
なんか、いいことばだ。
日本語は(中国語などと同様に)有声言語なので、声の上げ下げ(音程の高低)が意味の分節に関係してくる。
「はし」と言うとき、「し」を高くするか低くするかで、橋になるか箸になるかっていうアレのことね。
日本語を話すとき、わたしたちはことばを(節=メロディをつけて)「歌う」のだ。
英語のような無声言語でも、事情は同じことかもしれない。
英語の場合は、むしろ音の強弱(アクセント)のほうが意味の分節にかかわってくるが、これは、リズム、ビートによってことばを「歌う」のだともみなせるかも。
ラップなんかまさにその感じだもんね。


そこで、ふと思い浮かんだのは、子どもがことばを話し始める前のときのこと。
まだ言語音にならない音声を赤んぼうはやたらと発するのだが(いわゆるバブリング)、本人は親と同じようにしゃべってるつもりらしい。
ことばにはなっていないから意味不明なのだが、意味不明であるがゆえに、まさにそのおしゃべりは「歌って」いるように聞こえる。
こどもはことばを「話し」始めるのではない、「歌い」始めるのだ。
このあたりの時期の発達心理学的研究は、正高信男さんの『子どもはことばをからだで覚える』がおもしろい(増田さんの日記でも以前ふれられていたような)。


おとなだって似たようなものかも。
ふだんの会話のなかで、私たちはそんなに相手の言ったことをきちっと「理解」(しようと)しているだろうか。
むしろ「歌い」「踊り」、身体的な共鳴を楽しみあい、お互い発話の意味・メッセージなど大半は忘れ去っているのではないか。
(会話のビデオを分析したコンドンは、会話者たちの身体動作が何十分の1秒の単位で同期する相互シンクロニー現象を見いだし、「まるでいっしょにダンスを踊っているよう」と形容した)
「歌」についてはなおさらで、アメリカでは大学生を対象とした60年代の調査で、歌詞をきちんと理解している者は1割ちょっとにすぎなかったという研究もある。
日本でも稲増龍夫さんが同じような実験をしてたが(「社会的コミュニケーションとしての音楽」、水原・辻村編『コミュニケーションの社会心理学東大出版会、こちらもかなりのヒット曲の歌詞にもかかわらず、きちんと理解していたのは5割足らず。
こういった実験、日常会話についてもやってみると、おもしろい結果がでそうな気もする。
理解度はけっこう歌の歌詞と変わらなかったりして。
どっかですでに似たような研究がやられていたような気もするが、う〜ん、おもいだせない。

とりあえずまとめれば,「作品」という単位でしか音楽(的なものと社会的に括られてるもの)とカネは結びつかないわけではないし,劇的快楽と音響的快楽と物語的快楽は,浪花節のような形で「分節不能な形で融合する」ことも可能である,ということだ。そしてそのような芸能(そう,芸能としかカテゴライズしようがないのだ)が,テレビ普及前の近代日本におけるナンバーワンの大衆娯楽=ポピュラー文化として機能していた事実,そしてその存在すら忘却されたかのように急激に衰退していって,いまやオレのような「世代」は,自己オリエンタリズムとしてしか浪花節に接することはないという事実は,とても重要な「なにか」を差し示しているように思える。


コミュニケーションもまた、多様な快楽がアマルガム的に「分節不能な形で融合」している地点から、開始されるものだと思う。
それは経験的・偶然的なものではなく、必然的にその地点からでなくては開始されえないものではないか、とも思う。
私がハーバーマスにどうも違和感をおぼえるのも、そこだ。
コミュニケーションにとって、妥当請求は本質的なものだろうか。
(しかし、この「妥当請求」という誤訳に近い訳が定着しているのは何とかならんものか。英語ではvalidity claimと訳される。発話者は自らの発話の妥当性を「主張 claim」するのであって、「請求 request」するのではない)
ハーバーマスの普遍的語用論の枠組みでは、劇や遊び、冗談などの言語行為は、オースティンのいう寄生的言語行為として例外(非本質的)扱いされることになる。
だが、子どもがことばをおぼえていく過程に接するに、その過程はまさに「ことば遊び Sprachspiel 」以外の何ものでもない。
端的に楽しそうなのだ、応答する/しうることが。
「○○ちゃん、どうちたの?」「う゛あああ、うっくん、あっくん♪」「おなかすいたの?」「いっきぃ、えぐぐぐ♪」「そーなの」なんていうやりとりは、とても親以外には傍目でみていて耐えられるものではなかろうが、何とも子どもは(親もだが)楽しそうなのだ。
発話にともなう(妥当請求をかかげたことへの)責任(responsibility)は、むしろその快楽を帯びた応答可能性(responsi-bility)から、ある特定の社会‐文化‐歴史的条件のもとで分節化された(責任‐快楽という二項対立とともに)ものにすぎないのではないか、ある意味で。
ウィトゲンシュタインが Sprachspiel(言語ゲーム)というメタファーを打ちだしたときに見据えていたのは、そうした遊び Spiel における応答可能性だったのではないか。
そして、いまや私のような歳の「おとな」は、「子ども」へのノスタルジーとしてしか遊びに接することはないという事実は、確かにとても重要な「なにか」を指し示しているように私にも思える。


「子ども」のイノセントな応答。
それは恐怖にみちた残酷なイノセントさでもありうる。
殺人による応答のような。
憎しみという以上に快楽による殺人。
それ(快楽を根拠とする殺人)を思いとどまるよう説得するすべは原理的にはないし、そういう応答をなそうとする相手に対しては関係を断つ(殺すなり隔離するなり)しかない。
だから、むしろそうした相手への対応は易しい(というと語弊があるかな、どう対応するか合意がえられやすいというべきか)。
ただ、コミュニケーションの(社会的関係性の)根底にあるのが、そうした殺人の可能性も含めた意味での応答する快楽(「快楽」として分節化される以前の傾向性 dispositionというべきか)だとするなら、少なくともハーバーマスはそれに対して何ごとも言いえない。
だってそうでしょ。
にこにこと楽しげに笑い合っているだけの2人に、発話の妥当請求の責任やらを説教して、何の意味がある?
にこにこと楽しげに殺し合っているだけの2人に対しても、だ。
その2人に何か意味のある(効力のある)ことを言えるとすれば、「殺し合うより、殺し合わずに2人でこういうことしたほうがもっと楽しいんじゃない」ってことだろう。
コミュニケーションそれ自体は、何かしらの倫理道徳なり価値なりを根拠づけるものではない。
むしろ端的な事実性だ。
これこれの事実A(たとえば殺し合いゲーム)に対抗できるのは、別の事実B(たとえば笑い合いゲーム)でしかない。
脱社会的存在を生みださないためのプラクティカルな対応としては、道徳的お説教をしてもしかたがなく、事実Aの楽しさ<事実Bの楽しさにすることしかない。
それをどういうふうにするかというプラクティカルな問題はあるにせよ、基本方針としてはそういうことだ。
私は殺し合いゲームは個人的趣味として好きになれそうにないし、ヘドニストだし、生活上の格率としてはこの基本方針を採る。


だから、『サイゾー』3月号の宮台×北田対談での最後の「オチ」、

編集部 うーん。ちょっとでも楽しい世の中になればいいなあ。

という「すごく普通の結論」にすごく賛成なのでした(笑)。
フツーであることを恐怖するエイティーズ世代と、フツーでないことを恐怖するナインティーズ世代との狭間で、フツーに対する見かたにアンビバレントなところはありますけども。