『新版 社会学がわかる』

朝日新聞社、2004年


生協にファイルを買いに行ったついでにゲット。
「数理社会学」の項を書いた盛山和夫さんの「忘れがたき人」がカール・ポパーで、「メディアの社会学」を書いた北田さんがドナルド・デイヴィドソン
別におかしくもないけれど、その外し方(?)の共通性に何となくにやりとしてしまう。
何とも邪道な楽しみかただが。
邪道ついでに、旧版(96年発行)→新版の「社会学入門ブックガイド50」の異同を比較。

  1. 正村俊之『秘密と恥』勁草書房・1995
    →奥村隆『他者といる技法―コミュニケーションの社会学日本評論社・1998
  2. 作田啓一『増補・ルソー―市民と個人』筑摩書房・1992
    →井上俊『スポーツと芸術の社会学世界思想社・2000
  3. 筒井清忠『日本型「教養」の運命―歴史社会学的考察』岩波書店・1995→
    内田隆三『探偵小説の社会学岩波書店・2001
  4. 井上俊『悪夢の選択』筑摩書房・1992
    立岩真也『私的所有論』勁草書房・1997
  5. 宮台真司・石原英樹・大塚明子サブカルチャー神話解体』パルコ出版・1993
    北田暁大『広告都市・東京―その誕生と死』廣済堂出版・2002
  6. 山田昌弘『近代家族のゆくえ』新曜社・1994
    赤川学セクシュアリティの歴史社会学勁草書房・1999
  7. ロラン・バルト『神話作用』現代思潮社・1967
    東浩紀動物化するポストモダン講談社現代新書・2001
  8. 作田啓一個人主義の運命―近代小説と社会学岩波新書・1981
    浅野智彦『自己への物語論的接近』勁草書房・2001

こうやって並べてみると執筆者の葛山さんのクセがよく出ているような気も(他の文献のラインナップもそうだが)。


桜井哲夫氏の書いた「若者とコミュニケーション」のサブタイトルは「言葉の機能の衰弱が社会関係の暴力化を生む」。
本文中には次のようにある。

情報社会化は、決して相互の円滑なコミュニケーションを生みだしはしなかった。……現代の情報革命の力点は、言葉の機能をひたすら情報の伝達のみに限定し、結果として、相互に言葉を交わすことで生まれる心理的融和関係の成立という点を無視した。なにげない時候のあいさつ、軽口など融和的関係を維持する言語の機能は、ひたすら貧弱化したのである。
……無駄話への欲求は、いたるところに見いだされる。ここで言うのは、高校生や大学生たちの携帯電話による延々と続く無駄話のことだけでない。疑うなら見よ。2ちゃんねるなどのインターネットの巨大掲示板に見いだされる、情報の伝達を目的とするよりも、ひたすらな無駄話をしたいという欲求が生み出した壮大な無駄話の画面を。「おたく」という名称で、若者を異分子扱いしてすむことではない。言語の持つ人間関係融和の機能の衰弱は、社会関係の暴力化をも生むはずだからである。現に、われわれの社会は、かつてなく、暴力の嵐に見舞われ始めているではないか。

(p.121)

う〜ん、困ったなあ。
この時代診断は端的に逆だと思う。
むしろ関係融和の機能の肥大(情報伝達機能の衰弱)こそが、「かつてない」かたちの問題(「暴力の嵐」かどうかはひとまずさておき)を生み出しつつあるのではないか。
桜井氏は『ことばを失った若者たち』(講談社現代新書、1985年)のなかで、その萌芽にふれていたようにも思うのだが。
この本では、69年の三島由紀夫と東大全共闘との討論を引用したあとに、次のようにある(今あらためて見返してみたら、表紙には「'80s現象」という文句が... おお、エイティーズ... )。

…しかし、注意すべきなのは、あらゆる「かたち」を拒否し、すべては関係のなかに解体される、実体など何もないと述べながら、つねにその背後に一体化への衝動がうごめいていたのが、全共闘運動であったのではなかったのか……。
たとえば、名画座のオールナイトで高倉健主演の東映ヤクザ映画をみながら、「健さん、待ってました」というかけ声をかけることも、ひとつの一体化衝動ではなかっただろうか。〈ことば〉にならない〈かたち〉への依存とは、別のことばでいえば「甘え」にほかならなかったのではないのか。

(p.115-6)

〈ことば〉の意味内容・表象を形骸化し、その〈かたち〉=交話的機能=つながりを肥大させていった果てに位置するのが現状ではないか。
健さん、待ってました」の延長線上に(といってもダイレクトにつながるとは限らないが)位置するのが2ちゃん的な「キタ━━━(゜∀゜)━━━ !!!!」ではないか。
(話は少しそれるが、60〜70年代の若者を論じた本を読んでいると、転倒した既視感(90年代以降の若者論の逆再来)をおぼえることがままある。)
それはともかくとして、今の若者論に決定的に欠けているのは、桜井氏の『ことば』でも引かれている加藤秀俊氏の『中間文化』論のような、変化の明暗・表裏両面を見ようとする落ち着いた態度であるように思う(くどく繰り返すけれども)。

加藤は、加藤の立場を実感主義として批判する江藤淳らとの座談会のなかで次のように述べている。

「自己志向型と他人志向型と出されると、自己志向型のほうが倫理的にいいという印象を受けちゃうんですが、他人志向型の美徳の一つは自由なコミュニケーション関係を他人と持つということだと思うんです。サークルを気軽に作って、みんなと表現活動を活発にやれるような精神は、グルーピズムみたいなネガティヴなものじゃなくて、非常にモダンな他人志向型の長所じゃないか」(橋川文三加藤秀俊江藤淳、田口富久治、大江健三郎、「『実感』をどう発展させるか」『中央公論』一九五八年七月号)
対象化する通路として他者との交流を考えてゆこうとする加藤に対して、たとえばこのときまだ二五歳で加藤よりも三歳年下であった江藤淳は、
「いったん主体が確立されれば、実感に固執する意味はなくなってしまう」
と述べた。いうまでもなく、ここには近代的な主体というものへの進行が、何の疑問もなく提示されている。……。いずれにしても、加藤が、否定的にしか評価されない他人志向、いうなればまわりの人びとへの模倣、同調行動のなかに新しい表現活動の芽ばえをみいだしたことは評価されてもいい。
(pp.42-3)

明暗両面をあわせ見ようとしない視線は、しばしば単純な「昔はよかった」式の過去への回帰に陥る。
それでいいのか。
昔は本当によかったのか。
問題はまるでなかったのか。
私は素朴に疑問に思う。
(もちろん暗い面を見すえようとせずに、「問題の社会的構築」ばかりを言い立てるのも、それはそれで問題だが)
桜井氏は、三島と全共闘の対談がおこなわれた69年に20歳の若者期まっただなか、この『ことば』を書いた85年には36歳という、若者であったことをまだ残しとどめている年齢。
ひとはだれしも齢を重ねると、「今どきの若いやつらは」への傾斜を強めていくものなのだろうか。