サブリミナル、補足

一般的通念として流通している「サブリミナル」と、科学的(心理学的)概念としての「サブリミナル」には、少なからずギャップがあるように思う。
サブリミナル(効果)が社会的に問題にされた場合、やっかいなのはそのギャップがそれと気づかれにくいことだ。
その点についてちょっと補足。


心理学といっても、臨床系の心理学や精神分析/実験系の知覚・認知心理学では、よってたつ理論・方法論が月とスッポンほどに違う。
ここでまずとりあげたいのは、後者の実験系心理学のサブリミナルの考えかた。
まず問題は「意識」というものをどう考えるか、だ。
「意識できる(supraliminal)/できない(subliminal)」とは、どういうことか。
行動主義的な心理学では、客観的に(=第三者が)観察不可能な主観的「意識」などというものはオッカムの剃刀でばっさり切って捨ててしまうが、今の実験系心理学は、そこまで割り切ったやりかたをとらない(し、そのやりかたで「心」を研究するのはかなり限界があることが、すでに60〜70年代にチョムスキーやその他の研究者によって理論的に明らかにされている)。
「認知革命」を経た心理学は、むしろ積極的に「心」のモデル=情報処理モデルを設定し、そのモデルの妥当性を実験データなどとつきあわせて検証するというやりかたをとる。
意識できる/できないの差も、その情報処理モデルのなかに組み込まれる。
ごく乱暴にいってしまえば、ある刺激(情報処理系への入力)やそれに対する自分の反応・行動(出力)が「意識」できる、というのは、入力→出力に至る認知過程、それ自体を認知できる、ということだ。
つまり、オブジェクトレベルの認知(過程)に対するメタレベルの認知(過程)が「意識」であるわけだ。
人間は、自らのなしているすべての認知過程をメタ認知=「意識」できるわけではない。
オブジェクトレベルでの認知過程のみにとどまるもののほうがおそらくは多い。
そうした「無意識」のうちになされる自動的な情報処理の領域を指して、「サブリミナル」とよぶ(とおおよそ考えていいだろう)。


さて、こうした意味での「サブリミナル」は、一般通念として流布しているそれと違って、「なんかコワそー」なものでも、オカルト的なものでも、おどろおどろしげなものでも、なんでもない。
たとえば、いわゆる「錯覚」を生みだす認知過程も「サブリミナル」なものだといえる。
一番上のところに示した図は、有名な錯視図形だが、同じ長さであるにもかかわらず、どうしてもわれわれの目には下のほうが長く見えてしまう。
定規でいくら同じ長さであることを確認したあとでも、そう見えてしまう。
どうしてこういうふうに見えてしまうのか、われわれにはわからない=意識できない。
視覚系の認知機構が自動的に=「無意識」のうちに、そういうふうに情報処理してしまうのだ。
もちろん、われわれは、この錯視図形を見ること自体とは別に、「これは錯覚である」という知識をえており、「下のほうが長く見えるが、本当は同じ長さなのだ」と判断する。
だから「そういうもんなんだ」と納得している。
「そういうもんなんだ」とみんな知っていると考えている。
だから、錯視図形をみても「なんかコワそー」とか「あやしそー」とか「わけわかんねー」とか思わない。


いわゆる(瞬間呈示などによる)サブリミナル効果が人々を「欺く」というのも、こうした錯視図形が人々を「欺く」ことと基本的にはさして変わるものではない。
サブリミナル‐カットを使うことによって人々を「無意識」のうちに操作できる可能性があるとすれば、錯視図形をうまく使うことによって(この例ほど有名ではないやつで)人々を「無意識」のうちに操作できる可能性もある。
しかし、「おい、この広告は錯視図形を使っているふしがあるぞ」とか「テレビのオープニングに錯視図形がまぎれこんでるぞ」とか、錯視図形が社会問題になったという話は聞いたことがない。
「錯覚」に関しては「そういうもんなんだ」という知識がある程度きちんと共有されているからだ。
「サブリミナル」に関しては「そういうもんなんだ」という知識が流通するまえに、「なんかコワそー」というおどろおどろしげなイメージが先行してしまったふしがある。


そうなってしまったのは、俗流精神分析によってサブリミナルを論じたブライアン・キイの著作が1980年代に翻訳され、大きな話題になったことによる影響も大きいだろう。
このポスターの女性モデルの手の形はペニスを暗示したサブリミナル刺激になっているとか、ウィスキーの波のなかにドクロが描き込まれているとかいった類のアレだ。
そもそも精神分析でいう「無意識」は、実験系心理学でいう先に示したような「無意識」の考えかたとは、(共通する部分はあるものの)かなり違っている。
両者は「心理学」という名前で括られることも多いから、世間では何となく同じ学問の下位分類のように思われがちだが、生物学と文学ほどちがうといってもおおげさではないかもしれない。
精神分析での「無意識」は、あくまで「治療」を目的とした便宜的な作業仮説だ(と思うのだが、専門家でないので自信はあまりない)。
エディプス・コンプレックスだとか、タナトスだとか、何だかんだの精神分析の概念は、「こういうふうに考えれば、治療がうまくいくことが多いですよ」という経験則の延長線上にある。
治療がうまくいくことが第一。
だから、エディプス・コンプレックスなるものが、はたして心理的「実体」として本当にあるのかどうかは、ある意味どうでもよい。
あると仮説して、治療がうまくいくことが多いのなら、それでよい。
心理的「実体」として精神分析的概念が実在するか否かの検証は、さしあたり精神分析が直接問題とするところではない(だから、デーゲンの『フロイト先生のウソ』がおこなった批判は、半ばは当たっているが、半ばはそもそもが的外れではないかと思う)。
「作業仮説」としての精神分析的概念は、これまでにおこなわれてきた精神分析家たちの治療から導出された経験則の最大公約数的なエッセンスであり、個々の精神分析家の経験則を補助するものにすぎない(たぶん)。
だから、具体的な精神分析の経験なくして、それ自体として役に立ちうるものではないし、具体的な治療場面を離れて、それ自体として端的に妥当・有効なものでもない(おそらく)。
なのに、精神分析医でもないシロウト学者が、精神分析を文学批評や社会現象などに安易に応用しようとすると、そのことをふまえずに、議論をたれながしてしまう。
その最大の弊害が「無意識」の「実体」化だ。
ボクのワタシの心のうちには、性衝動につきうごかされる得体の知れない怪物=「実体」としての「無意識」が棲んでいる、というイメージばかりをふりまいてしまう。
えー、だれの心にも近親相姦願望があるのー、そんな怪物がボクのワタシの心のなかにも棲んでるのー、なんかコワーイ。
サブリミナル刺激はそんな怪物に語りかけ、「無意識」のうちに自分を動かしてしまう→なんかコワーイ。
そんなイメージ...


「無意識」というのは「痕跡」としてしかとらえられない。
それ自体として=「実体」として積極的にとらえられるものではない。
精神分析的な「無意識」についての場合、その「痕跡」のあらわれかたは、個々の人によって異なる。
だから、精神分析は基本的にあくまで個人(史)を対象とする。
精神分析の枠組み(作業仮説)は、「人々一般」を直接の対象にするものではない。
「無意識」の実体化は、「人々一般」のなかに棲む同一の怪物を措定してしまう。
ここには転倒が生じている。
さらに、そこに「人々一般」を対象とする実験系心理学の「サブリミナル」概念が安直にむすびつけられてしまうと、だれの心にも棲む怪物を操るサブリミナル、という図式ができあがる。


キイの『メディア・セックス』や『潜在意識の誘惑』は、俗流精神分析俗流実験心理学を合体させて、みごとにこうした図式を作り出してみせた。
そうそう、キイの実験のずさんさについては、どっかで書かれていたような。
ああ、これこれ、『サブリミナル効果の科学』(坂元章ほか編、学文社、1999年)。

…キイは、1000人以上の成人を対象に、戦術のギルビーズ・ジンの広告を見せ、この広告を見て感じたことを報告させた。その結果、調査対象者のうち62%が、満足、性的な興奮、みだらな気分などを感じたと報告している。そのうちの誰も、この広告の中にサブリミナル埋め込みがあることに言及しなかったにもかかわらずに、である。
ただし、この結果の解釈には注意が必要である。彼の研究では対照群、すなわち、性的な埋め込みのないジンの広告を見る群がないため、広告を見た調査対象者が、性的な埋め込みによって興奮したのか、ジンの広告自体に興奮したのかが分からないのである。

(pp.74-5)

実験群と対照群を設定するのは、心理学の初歩中の初歩。
いかにもシロウトくさいぜ。
これに対しては、別の研究者により対照群を設定した追試がおこなわれ、性的な埋め込みのある広告のほうが皮膚電気反射(GSR)が大きいことも確認されてはいるが、たとえば、その影響がどこまで残るものか、記憶に関する実験では次のような報告もある。

ボーキーとリードは…埋め込まれた性的なメッセージが実際に記憶を高めるかという問題を検討している。…その結果、セックスという単語が埋め込まれているスライドと、他の2つのスライドには再認成績の差が見られなかったこと、また、埋め込み広告の再認成績は、直後よりも2日後のほうが悪くなったことが確認された。キイは、埋め込み広告の場合、直後よりも時間が経った後のほうが記憶保持に効果的であると主張していたが、この結果はその主張とは異なるものであった。

(p.76)

サブリミナル効果については、この本と下條信輔さんの『サブリミナル・マインド』(中公新書)がオススメです。


私としては、サブリミナルそのものよりも、「実体」としての無意識=「自分ならぬ自分」へのある種の“憧れ”“欲求”が社会的に高まってきているように思えて、そちらのほうが気になるところだ。
それは自分ですべてを決定したくない(できないという以上に)、むしろ自分もある種の「他人」にまかせてしまったほうがラク、というメンタリティの高まりにも思えるのだが、この話はまた別の機会にでも。