ふれられたくない過去

に,さるところ(id:gyodaikt:20040206)でふれられてしまったので,その言い訳(またかよ).
そう,私には,CSの大御所グロスバーグの論文を訳した過去があるのです.
むかし助手として勤務していた研究所が,彼をまねいてシンポをしたときの講演予稿なのですが.
そのシンポの雑務担当をおおせつかったのが私でして,講演には同時通訳もつくものの,オーディエンスの便宜を考えて,予め送られてきた予稿の翻訳がハンドアウトとしてあったほうがよかろう,ついては「ツジくん,よろしくね」ってことになりまして.
院生かき集めて下訳してもらったはいいものの,半分以上は使いものにならず(翻訳ソフト使ったのをまんま出してきたのもあった,「平面」と訳すべきplaneが「飛行機」になってたりして),泣く泣く徹夜で訳し直しましたとも.
だって,助手としてお給料もらっているからには当然の義務たる「おしごと」ですから.
訳すべき価値があるのかと疑いながら訳すほどツライものはなかれども,「おしごと」ですから.
それくらいの職業的責任感は私にだってあるのです.
訳すべき価値があるのかと私は思っていても,そこに価値を見いだす人はいるかもしれないし.
それくらいの職業的配慮は私だってするのです.
ま,シンポのハンドアウトで広くでまわるわけじゃないからいいか,とタカをくくっていたら,「せっかく訳したんだから公刊しようよ,ツジくんの業績にもなるしね」ってことに.
でも,例によって立ち消えになりかかっているあいだに,今の大学に転任しちゃったので,これで逃げ切ったぜとホッとして忘れかけていたころに,「例のグロスバーグ論文,よろしく」ってお手紙が...
「いや,私なんてCSの門外漢もいいとこですし,えーと,○○くんなんかのほうが適任じゃないっすかね」と逃げをうったのもむなしく,断り切れませんでした(意志薄弱なもので).
「訳者解題」なんざ,ホント書くのに困り果てました.読まれたかたがいましたら,おわかりのことと思いますが,ほとんど何も「解題」してません.何も「解題」しないところにささやかな自己満足的含意をこめたつもりなんですが,わけのわかってないアホな訳者だなーと思われたんだろうなー(そのとおりだけど).
でも,いいかげんな「おしごと」はしたくないので,自分の力の及ぶ範囲で,きちんと訳したつもりではある(誤訳も多いだろうが).
グローバリゼーションについて論じたその論文のなかで,グロスバーグは次のような文句で語り始めている.

私の経験から言えば,学際性を唱える研究者のほとんどは自らの関与する学科の特権や専門性を本気で手放そうとは思っていないし,そうした関与と学際性の実践との関係を問いただす気さえももちあわせていない

「グローバリゼーション,メディア,エージェンシー」『思想』933号,p72

「学際性(interdiscipline)」とか「学科(discipline)」とかはひとまずどうでもよく,ここで私があげつらいたいと思っているのは「学的(CSの問題意識からすれば当然ある種の政治性をおびることになる)関与と実践との関係を問いただす」というところ.
こういうCS的問題意識を前景化しておきながら,ずっと後の議論では次のような一文が出てくる(p90).

…そこではコミュニティは,アメリカ的になるという想像力を具体化する生活様式となり,これらの想像力はつねに(「メルローズプレイス」のような)場所[プレイス]へと節合される.…

メルローズプレイス」って何のことか,わかります?
ビバリーヒルズ青春白書」のようなアメリカの人気テレビ番組のことらしいんですが,日本ではWowwowあたりで放送されたこともあるらしいものの,たぶん知らない人のほうが圧倒的に多いんじゃないかと思う.
これ,あくまで日本での講演のための原稿でっせ.
何の注釈もなく(もちろん訳注はつけましたけど),これで通じると思ってしまう――というより,通じるかどうかを「問いただす」ことすら念頭にうかばない――のは,私にはいかにもアメリカ人らしい感覚に思える.
そのこと(政治性への暗黙的・無自覚的な関与)を問題化するはずの論文が,当の問題自体を実践的に反復してしまっていることの皮肉.
その皮肉に嗤ってしまうのは私だけだろうか(そうですか).


もちろん,これは揚げ足取りだ.
でも,それほどまでに(CSの「大御所」すら揚げ足をとられてしまうほどまでに),権力作用のなかで権力作用を「語る」ことはむずかしい.
その難しさに,CSの「大御所」たちですら,どこまで自覚的でありえているのか.
彼ら彼女らがむやみに使う難解な専門用語に接するたびに,私は疑問に思う.
それって,知的たらん,学的たらんとする「粉飾」じゃないの.
「実践」しているふり,実践を形骸化させた「ポーズ」じゃないの.
そのことの「政治性」「権力性」はどうなってるの.
むやみにむずかしいこと言えばいいってわけじゃないのと同様に,むやみにやさしい物言いをすればいいってわけじゃないのも,わかる.
しかし問題は,難/易の「文体」でなく,「話法」「語法」にある.
「文体」と「話法」は,密接に関連しはするけれども,それらは言語行為の別のアスペクトだ.
何ごとかを語るときの,どう語るのか/だれが(どこから)語るのか,の違いと言いかえてもいいかもしれない.
たとえばデリダ蓮実重彦の文章は難解な「文体」と評されることが多いが,それは「話法」上の要請からくる戦略だ.
エピゴーネンは,この点を勘違いして,むやみに難解な「文体」をありがたがってしまう.
寡聞にして私は,デリダや蓮実ほど練り上げられた「話法」をもつCSの「大御所」を知らない(と言ってしまうのは自分の不勉強をさらけだすようでちょいと気が引けますが).


それにしても,CSに「宣戦布告」なんてするんじゃなかった(笑)
いや,当人としては「宣戦布告」などするつもりは毛頭なく,せいぜい「敬遠宣言」くらいのつもりだったんですが.
真っ向勝負を挑むほどの決め球もないし,牽制球をちょいと投げておいて,バッターは敬遠しちゃお,ってな腹づもりで.
柄谷行人氏のように,「オレはこういう輩を以後「カルスタ」「ポスコロ」と呼ぶ!」なんて,デッドボール宣言しちゃうのもコワイし.
そういえば,Y見センセはグロスバーグのシンポのとき,そのデッドボールを打ち返そうとしてたなあ(観客席からみると,「よけちゃえばいいのに」と単純に思ったなつかしい思い出がある).