「実感」の錯覚

社会調査データの「見切り」かた、なんてゆう話を先日したが、もちろん社会調査は数量的(定量的)なアンケート調査に限られるわけではない。
インタビュー調査とかフィールドワークとか、他にもいろいろあるわけで。
これらの調査法のありがちな2分法として、量的/質的というやつがある。
質的調査をナイーブに奉じる方々からしばしば量的調査に投げかけられる批判は「数字なんてあてになるか」といったやつだ。
もっぱら量的調査をしてきた私だが、これに対しては「おっしゃるとおりでございます」と言わざるをえない。
数字の「あてにならなさ」にもいろいろあるが、たとえば。
友人とのつきあいかたについて、「1.何の隠しだてもなくつきあう」「2.心の深いところは出さずにつきあう」「3.ごく表面的につきあう」の3択で訊いたとしよう。
じゃあ、「何の隠しだてもない」つきあいかたって、具体的にはどんなものか?
これはまちがいなく、人それぞれだろう。ある人は「オレ、実は童貞だってのを、友だちみんなにべらべらしゃべっちまってるもんなー」と思い浮かべて1に○をつけているかもしれないし、別の人は「親に虐待されて殺されかけたことがあるのを、こないだ、ただひとりの友だちだけには話せた」と思って1に○をつけているかもしれない。
こういう「何の隠しだてもなさ」の多様なリアリティを、量的調査は暴力的に単純化してしまい、隠蔽してしまう。
多様で複雑な「真実」を、数字はすくいとれない、というわけだ。(さらにCS的な物言いを加えれば、実証的=数量的アプローチをとる研究者はそうした暴力性=政治性=学的制度による隠蔽の権力作用に無自覚だと批判される。)
このこと自体は正しい。


私が反発したいことは、その先にある。
じゃあ、どうすればいいか、ということだ。
ここで、エスノグラフィーなりフィールドワークなり何なりの「質」的調査を称揚してもしょうがない。
個々の具体的な社会的状況の場に参与して、詳細な観察・記述をおこなったとしよう。
そこから得られる知見が大きいだろうことは、私にも異論はない。
しかし、そこにもやはり限界はある。詳論は省くが、「森をどうとらえるか」「実感の錯覚」という2点に圧縮して指摘してみる。


個々の具体的な生の事例や現場にあたるには、現実問題として相当な労力がかかる。
その結果として、1人の研究者が見渡せる事例・現場の範囲は限られてくる。
たとえば、友だちをもつ若者の全体を、生の事例を積みあげていって見渡すことは到底できまい。
仮にできたとしても、膨大な事例の詳細な記述は天文学的な情報量になり、人間の情報処理の限界を超えてしまい、全体を見通すことはできなくなってしまうだろう。
ここで、「木」(=部分)を見て「森」(=全体)を見ず、という危険が生じる。
もちろん、研究のテーマ・問題関心によれば、「木」を見れば十分ということもあるだろう。
しかし、「森」を見なくてはまずいはずのテーマ・問題もやはり多いのだ。
量的調査というのは、「森」を見渡すための次善の策なのだと、私は考えている。
「量」的調査、「質」的調査という言いかたはあまりよくない、と書かれた本を読んだことがある(どの本だったかは忘れちまいました)。
「量」的調査は、情報の精細度は低いが全体を見渡せる。「質」的調査は、情報の精細度は高いが全体を見渡せない。
そうした情報の精細度と把握できる範囲の差ととらえるべきだ、というのだ。
私は基本的にこの意見に賛成だ。
森を見て木を見ず、ということもあるのは、言うまでもない。
だから、「量」的/「質」的調査を、対立的なものではなく、相互補完的なものとみなしたほうが、私は建設的だと思う。
社会調査の数量的データへの批判(単なる数字アレルギーであることもけっこう多い)は、データに基づく議論を「机上の空論」「学者の抽象論」とみなし、しばしば狂信的な「現場主義」「具体的実感主義」へと陥る。
具体的な生の「現場」にあたることは、確かに大切なことだ。
しかし、その「現場」=「木」が「森」を代表しているかどうか、「森」のなかのどういう位置にあるのか、そうしたつきあわせを「現場主義」はややもするとネグレクトしてしまう。
そこに私は抵抗感をおぼえるのだ。
「私は現場を知っている」のはいいとして、どうして「ブルセラ女子高生」(古いか)が、今の若者の代表格(representation)として位置づけられうるのか。
「部分」はそのままではあくまで「部分」でしかない。
「部分」と「全体」をショートサーキットさせるような物言いには、どうしても私はひっかかってしまうのだ。
まあ、宮台真司さんや東浩紀さんは、半ば確信犯的に(ジャーナリスティックに)そういう物言いをしていることがわかるから、いいのだけれど。
「終わりなき日常」や「動物化」という指摘自体については私も見方を共有する。彼らほどの才もない私の役目は、その議論でとりあえず省略されている「木」と「森」をつきあわせることかと思うのです。


もうひとつの点、「実感の錯覚」について。
「量」的調査は、複雑多様な「現実」「真実」をとらえきれない。
これはよい。
では、「質」的調査なら、「現実」「真実」に迫りきれるのか。
この点に私は疑念をもっている。
それは私が心理学に片足つっこんでいるということに多少関係がある。
(もう片足は社会学、そしてさらにもう片足は語用論に。お、足が3本あるぞ...)
たとえば、友だちとのつきあいについて、アンケート調査のような「量」的手法をとらず、1人に徹底的にインタビューする、あるいは、生まれてから死ぬまでをともにして徹底的に観察する、というようなことをおこなったとしよう。
そしたら、その人にとって友だちとはどういうものか、「真実」はつかめることになるか。
私はそうは思わない。
人は自分で思って(意識して)いるほど、自分のことを知らない。
これは現在の心理学の定石である。
精神分析(おっと、斎藤環さんによれば「精神分析」は「学」ではないのであった、うかつうかつ)においてだけでなく、ばりばりに「科学」的な実験心理学の世界でもこのことは定石となっている。
詳細は、下條信輔さんの本など読んでいただくことにして。
社会心理学の分野に、よく知られた「吊り橋実験」というのがある。
吊り橋を渡っているときに声をかけられた(知り合った)相手には、道で声をかけられた相手より、好意をもつ率が高いことを確認した実験だ。
この実験結果については、次のように解釈されている。

  1. 好意を感じると、人はどきどきする。
  2. 恐怖を感じるときも、人はどきどきする。
  3. 吊り橋を渡るのは怖い。だから、どきどきする。
  4. その吊り橋によるどきどきを、声をかけられた相手への好意によるどきどきと勘違い(誤帰属)する。
  5. だから、吊り橋で声をかけられた相手には好意をもっちゃう。(証明終わり)

心理学のもつこういうシンプルさを、私は愛してやまない(笑)
この実験は、ジェームズ‐ランゲの感情(情緒)末梢起源説を支持するものとしてとりあげられることも多いが(「悲しいから涙を流す」のでなく「涙を流すから悲しい」ってやつ)、ポイントは被験者に「どーして、その人に好意をもったの?」と訊いても、「吊り橋でどきどきしていたから」という答えは返ってこない=意識できない、という点にある。
好意をもった本当=「真実」の理由(この場合は理由(reason)つうより原因(cause)だが)を、当人ですら知らない、答えられないのだ。
当人の具体的な言い分をインタビューでいくら聞き出しても、当人のふるまいを徹底的に観察しても、その言い分やふるまいを素で「ベタ」に信じるわけにはいかないのである。
当人のことは当人がいちばんよく知っている、というのは、近代の主知主義の誤謬として、思想史的文脈では構造主義以降さんざん叩かれてきた。
ポスト構造主義をうんぬんするCSが(ま、アホな「俗流」CSの一派だけどね)、それにもかかわらず、割と無邪気に「現場主義」的アプローチを称揚して、「実証」的(=数量的)アプローチを頑なに拒絶するのをみて、その皮肉に嗤ってしまうのは私だけだろうか(そうですか)。


話はそれるが、マスコミ研究における俗流CS一派のアホさ加減には、イヤんなることがある。
(CS的な問題意識の「可能性の中心」をきちんと理論的に値踏みできている北田さんやら、CS的語彙や理論への言及を割愛したとしても優れた研究をしている方々(主にメディア史方面)は除く)
いわゆる「経験学派(empirical school)」「批判学派(critical school)」の研究方法論をテーマとしたワークショップでの話。
経験学派的な実証研究における権力作用の無自覚さうんぬんが問題にされたあと、さる俗流CS研究者は次のようなことをのたまわった。
「私(たち)は企業からお金をもらって研究や調査をおこなっているわけではありませんから、うんぬんかんぬん」
うんぬんかんぬんの部分は、よくおぼえていないが、確か、だから、営利なり何なりにとらわれず権力作用を中立的で自由な立場から問題化していくことができる、というような趣旨のものだったと思う。
アホか。
おまえは大学という制度に組み込まれることによって給料もらってる教員のひとりだろーがよ。
政治的中立性を標榜する学的制度というものの政治性、権力作用を考えなくちゃいけないってのが、CSにとっては重要な問題のひとつだろーがよ。
自分も権力作用のなかにコミットしつつ/せざるをえず、ということを前提に、それでもなお権力作用をどう問題化しうるのかを考えなくちゃならんってのがCSが言ってきたことだろーがよ。
それくらい、CSを敬して遠してきたオレにだってわかるぞ。
権力作用のなかで権力作用を「語る」ってのは、すげーむずかしーんだよ。
むずかしーから、オレなんか、はなからあきらめてんだよ(いばるなよ)。
こういうアホな俗流CSって(アホな俗流フェミニズムもそうだが)、私のような門外漢がCSに対する生理的反発感・嫌悪感をもよおす一因になってると思う。
不幸なことだ。


閑話休題


「人は自分で思って(意識して)いるほど、自分のことを知らない」の逆命題、「人は自分で思って(意識して)いる以上のことを知っている」ってのも、私の信条です。
これは私が心理学を専攻していた学部生だったころの話。
実験演習の授業で「重さの弁別域」の実験をやらされました。
右手と左手にそれぞれ重りをもって、どっちが重いかを答えるってやつ。
知覚(感覚)心理学の基本的な実験のひとつですが、左右の重さの差が大きくなっていくほど、対数曲線的に正答率があがっていくはずなんですね。
2人1組になって、交互に実験者と被験者をやっていくわけですが、私が被験者になったときは、どっちが重いとある程度自信をもって答えられるのは10回に1回くらいしかなかった。
最初はそれでも何とかどちらが重いかを見きわめようとして集中していたんですが、早々にめんどくさくなって、かなりてきとーな感じで答えるようになってしまった。
だから、「あー、こりゃだめだろうな。オレのデータはたぶんめちゃくちゃだよ。すまん、相方、きれいなデータがとれなくて。だってめんどくさいんだもん」と思っていた。
(後に被験者として協力した院生の記憶実験でも、やっぱりめんどくさくなって、「あんた、やる気がないか、記憶障害じゃないの」と言われたことがある。両方あたってます...)
しかし、結果をプロットしたグラフをみると、かなりきれいに対数曲線にのっていたんですよね。
おー、あんなにてきとーにやったのに、オレの身体はオレの頭以上に頭いいじゃん、どっちが重いか身体は知ってたのね。というのが、そのときの「実感」あふれる驚きでした。
だからって、身体的知を言挙げする昨今の論調にも、ある種の抵抗感と距離感をもつんですけどね。
なんせ、頭わるいわりに、頭でっかちなもんですから。


またも余談ながら。
こういう被験者が実験の意図や仮説を知っていてもOKというやりかたが通用するのは、知覚レベルまでで、認知レベル以上だと、明らかにその知識が結果に干渉する。
だから、認知心理学社会心理学の研究者は、自分を被験者にするというお手軽な方法がとれなくて、ちょっとめんどう。
まあ、認知(意味処理)なんて、いろんな要因(変数)がかかわってきて当然ですから、それを統制するのがそもそも大変なんですよね。
まして、社会心理においておや。
だから、社会心理学において設定される変数って、心理学の王道からすると、かなりあやしげなものなわけで。
そんな高次の複雑な心理過程に、限られた変数設定による実験・調査で迫りきれるもんか、と私も学部生のときは思ってました(今もそう思っているけれど、歳をとったおかげで、ま、いっかと投げやりな態度が身につきまして)。
そうしたわけで、私が学部生だったときには
生理心理、実験心理(ネズミとかハトとかの)>感覚心理>知覚心理>>認知心理>>>社会心
という確たる序列が存在していましたです。
今でもそうだと思うけど。