一年前に書いたこと

上のエントリでふれた約一年前の記事(朝日新聞夕刊、大阪版では2008年8月2日、東京版では8月30日掲載)で、私が「便所飯」がどうこうよりも、「いくばくかなりとも伝えたかった」ことに該当する部分を抜粋して掲載しておきます。

 こうした人間関係への敏感な気遣いは、それ自体が悪いことであるわけではない。「友達がいないように見られるのは耐えられない」者は、募金やボランティア活動への参加に積極的であることも付記しておきたい*1。これもまた、他者への気遣いの現れのひとつだろう。問題は、その敏感さゆえに、過度なまでの友達プレッシャーがはたらきかねないことにある。
 なぜこのようなプレッシャーが強くはたらくようになったのか。人目を気にすること自体は、以前から日本社会の特徴とされてきたことだ。例えば高度経済成長期には「人並みに車くらい持っていないと恥ずかしい」というように、物質的な面において人目が意識されてきた。しかし物質的な豊かさが達成されると、生活の満足度や幸福感はより身近な人間関係に左右されるようになる。意識の向かう先が人間関係にシフトするのだ。
 その意識は、特に高校までの間は、学級(クラス)を中心とした同輩集団の中に閉ざされ、苛烈な友達プレッシャーと化す。限られた関係の中で友達を作らねばならず、それに失敗した者は、孤独だけでなく、友達のいない変な人という烙印の視線にも、耐え続けなければならない。二重の意味で疎外されるのである。その視線から逃れる場所は、それこそトイレの個室くらいしか残されていない。
 今、必要なのは、学級制の見直しを含めて、子どもたち若者たちが、同輩集団以外の多様な関係を取り結べる環境を整えていくことではないか。友達などいなくとも、人に認められ必要とされる関係はいくらでもある。その相手はひとり暮らしのお年寄りかもしれないし、長期入院の子どもかもしれない。社会は広い。そこにはトイレの個室に代わる居場所が、誰にとっても必ずあるはずだ。

*1:この点は、20〜44歳の一般サンプルを対象とした計量調査の分析結果をもとに言っています(便所飯をしたことがある人にインタビューしたとか、そういうことではなく、より一般的な傾向性の話)。