大学という職場のソーシャル・キャピタル

対談「不平等社会日本と健康の格差」の近藤氏の発言から。

『健康格差社会』の中で「ソーシャル・キャピタル」(信頼,互酬性の規範,そして社会的なサポート・ネットワークなどの社会・集団の持つ特徴で,人々の協調行動を促すことにより社会の効率を高めるもの)という概念を紹介しました。個人としての利害と集団としての利害が対立する局面があり得ます。その時に「自分さえよければいい」というのは短期的に見れば合理的です。けれども,そういう個人が増えてしまうと緊張やストレスが高まり,集団や社会としてのパフォーマンスが落ちるし,そこに属する個人の健康が失われてしまうという理論仮説です。
 いろいろな病院を見学してみると,ある病院は患者が多くて忙しいのに,あまり文句を言わず,いや文句を言いながらも(笑),明るく働いている。片や,客観的に見ればさほどハードに見えない病院なのに,疲労感が漂い,つらそうに見えるところがある。何が違うのかをみると,前者ではソーシャル・キャピタルが豊かなのです。例えば,誰かが体調を崩して困っている時には「俺が診ておくよ」というサポートがあって,逆の立場になった時にはその借りを返すというふうに,お互いにカバーする。そんな経験に基づく信頼感があるのとないのとでは,集団のパフォーマンスがまったく違うんですね。


この点でいうと、大学という職場のソーシャル・キャピタルは乏しい、または、職場内の格差が激しいかもしれない。
「大学教員の日常・非日常」でも書かれてたけどさ、事務仕事(「雑用」)しない・できない人はさ、借りを返すどころか、借りている自覚すらないもの。

忙しい、忙しいと書いている教員のブログはたくさんありすぎて、どれを引用したらわからないぐらいですが「研究で忙しい」という話は、あんまり記憶にございません。どちらもこちらも「講義が…」「会議が…」「カリキュラムが…」と判で押したようのエントリになります。
「それもお前らの仕事じゃないのか?」と言われるかもしれませんがね、例えば、普通の企業の営業さんが、業績をあげるための外回りの時間を削らされて、入口の花壇の手入れや、お客様が使うトイレ掃除をさせられた挙句、それは仕事をしたことにはカウントしません、と宣言されてたら、どう思います?
「ああ、こんなことをしている間に、ちょっとでも電話できたら…」
「便所ピカピカにしている場合じゃなくて、取引先に顔を出したいのに…」
例え、拘束時間が短かくとも、我が身の状態を「忙しいのに」と思うんじゃないでしょうか?
さらには、この雑務は当番制のようで、当番制じゃないことが多いのです。
「お、花壇のお手入れが上手だねえ。来年もやってくれる?」
「やっぱり○○君の磨いたトイレは違うね。他の人は磨き方も知らないし、この仕事は是非続けてもらわないと」
ってな感じで、仕事できない人には雑用がいかず、一般的な事務能力をもっているまとも人に仕事が集まります。


そろそろ今年も終わろうとしておりますが、ここで私の来年の抱負をば。
こういう愚痴を来年こそはこぼさないぞ、と。