卒論の最低限の要件は「文章を書く」ことである

うちの大学では年明け早々が卒論提出〆切であるので、例年この時期は添削に追われるわけですが、今年はいつもより相当多く赤を入れておりまする。
毎年、ネタはなかなか見るべきものがあるのですよ。
20人中5人前後は、ちゃんとした文章に直せれば、学会発表か、場合によっては学会誌に投稿できるようなものがある。
ただ、その前提条件=「ちゃんとした文章に直せれば」がものすごく大きなネックなのだ。
ちゃんとした文章になっていないものが多すぎるのですよ。
たとえば、一次草稿の場合、これくらい赤を入れなきゃならない。

二次草稿だと、ちょっとマシ(になってるかね、ホントに?)

これまでは半ばあきらめて、添削は最低限にしてました。
だって、添削してるうちに、自分の論文の1本や2本書けるもの。
しかし、やっぱりネタとしてあまりに惜しいのだ。
そういうわけで、今年はゼミの卒業論文集を自費出版することにしました。
印刷に20万くらいかかるので、ゼミ生は5000円負担×22人=11万円で、残りの9万円程度は私が自腹を切る。
9万円も出して、文章になってない論文(もどき)集ではねえ。


そういうわけで、時間かけて添削しているわけですが、正直、世界の中心に穴を掘って、「王様の耳はロバの耳」、もとい、「あなたさまの文章はロバ並み」と叫びたくなること、しばしば。
主語に対応する述語がなかったり、述語に対応する主語がなかったり、主語と述語がねじれていたりするのは珍しくもない。
文が続いて並んでいるだけで、文章として組み立てられていないのが、やはり最も大きな問題。
喩えて言えば、頭・胴体・手・足などのパーツがばらばらに並べられているだけで、体としての有機的な連関をなしていないのですよ。
それじゃ動きだしようもなかろうが。


確かに、卒論なんて、大学卒業してしまえば、(研究者でも目指さない限りは)二度と書くもんじゃござんせん。
仕事に、生活に、何の役に立つものか、大学のなかだけでの自己満足、というご意見もおありでしょう。
しかしだな。


論文というのは、見も知らぬ他者に自分(の考えていること)を伝えるためのエッセンスが凝縮されたものであるのだ。
それは少なくとも現代においては、社会を成り立たせるために決定的に重要なものであり、大学で学ばなくてはならないものはそれに尽きると言ってもよい。
ちゃんとした文章になっていないということは、他者に向けて書く、伝えるという意識が決定的に希薄であることを表している。
だから、独り言になる。
独り言は、自分の思うがままを、だだ漏れに書き連ねていけばよいだけであるから、それゆえに、「文章」になりえぬのだ。


学者とか教授とか呼ばれる人の書いた「論文」(とされるもの)にも、独り言でしかないものは数多くある。
私はそんなものを君たちに書いてほしいわけではない。
論文を書くのは、ほとんどの学生さんにとって、これが初めてであろうから、添削の必要のない原稿が出てくるとは私も期待していない。
論文を書けるだけの文章力を養うトレーニングを十分になしえなかった大学のカリキュラムについても(私の授業を含め)その不備を反省するところは多々ある。
しかし、最終的には、自分の文章を差し向けるはずの他者と対峙する姿勢があるかないか、そこのところが大きいのだ。
それはシステマティックに教え込もうと思って、教えられるものではない。
しかし、教えられずとも、学ぶことはできるものなのだ。
そうした学ぶための場――教えられる場ではなく――であることに、大学本来の存在意義はある。


論文や大学のなかだけでなく、世の中には独り言が数多く出回っている。
放っておけば、そうした独り言はこれからもますます増えそうな勢いだ。
他者を目の前にしながらもそれを見ない独り言が、私はあまり好きではない。
だから、独り言ではないことばの作法を身につけた人が少しでも増えてほしい。
まあ私だって、そんな偉そうなことを言えた義理ではないがね。
日々研鑽あるのみ、である。