大学業界の愚痴

オレだけじゃないぞ、広田センセイも愚痴ってるぞ。

教育不信と教育依存の時代

教育不信と教育依存の時代

世間では、大学の先生はヒマにしていると考えているらしい。研究も学生の指導もせずに、テニスばかりしているような先生も、中にはいるかもしれない。

(p.247)


いや、広田センセ、「かもしれない」じゃなくて、確かにいます

しかし、そんな一部の逸脱教員を基準にして、あれこれ要求されたら、まじめにやっている者は、たまったものじゃない。
改革にはリスクとコストが伴うものである。大学改革も例外ではない。「社会への情報発信」であれ、「大学評価」であれ、「教育機能の充実」であれ、膨大な時間コストを、だれがどのように負担するのか、という問題が十分考慮されないまま進んでいるように思われる。競争的環境や自己チェックシステムが、資源配分のより効率的で実質的なあり方とつながって議論されていること自体には、異論はない。しかし、現在の改革論議は、「資源」という時、お金だけが想定されていて、時間という資源については無視されているように思われる。
「お金」をとってきて、それで人を雇ったり新たなセクションを作って、業務の一部をアウトソーシングすればよい、という議論があるかもしれない。しかし、研究教育は、標準化ができない個別性を備えている。……。だから、企業の活動と異なり、アウトソーシングできる部分は限られている。大学改革に伴って増える活動は、ほとんどすべて個々の教員の「時間支出」でまかなわれている。

(p.247-8)


しかも、大学経営者側は(というか、学長のような教学側のトップですら)その「時間支出」を「タダ」と考えているふしがある。

問題は「大学の自治」というより、標準化しにくい大学の業務を、専門のセクションを作りえないまま、各教員に委ねざるをえない、構造的問題だと思う。
「大学改革」が、期間限定的な改革であれば、それでも我慢できる。「この多忙の時期が終わったら……」と希望を持つことができる。しかし、「たえざる自己点検と評価・改善」、「恒常的な競争的資金配分」、そして、次々と学生が入れ代わる中での「教育・指導の充実」である。いつまでたっても、高い時間コストを支払い続けなければならない。

(p.248)


しかも、その時間コストの支払いに、教員間で偏りがありますから。
ここには個人間という以上に、ちょびっと世代間の偏りというところもあって、だからオレは団塊世代あたりには*1年金を払う気になれん
いや、こういうことはあくまで個人的な愚痴にすぎんので、どうでもいいのだが、「構造的問題」は何とかせんと、「まじめにやっている者」から順に大学教員はバーンアウトしていってしまう。

*1: 必ずしも団塊世代に限らないし、団塊世代であっても例外はむろんあるのだが。