とりあえず復活

先週半ば、精神に動揺をきたす事情が出来し、次の日の講義なぞ急遽休講にしてしまいましたが、ほぼ平静に戻りました。
親しい何人かの方々には、メールではた迷惑なお話をしましたが、そのおかげで落ち着きを取り戻しました。
その過程でわかったことをメモ。

  1. 自分でうまくのみこめないような精神的ショックをことばにしようとすると、きわめて紋切り型のことばにしかならない
  2. しかし、紋切り型の物語をつむぐことによって、なぜかしら気持ちの整理はついていく
  3. 物語のつむぎだしは、物語に回収しきれえないものをなだめる効力がある
  4. 物語療法の実効性とはこういうものなんだろうなと体験的に実感
  5. 「解離dissociation」という防衛機制のはたらきも体験的に実感(今のところ、精神的動揺をきたした問題が解決したわけでもなく、抑圧しているわけでもなく、日常的な生活や仕事の文脈から切り離すことができたため、心理的平静を保ちえている)
  6. この解離は、ときおり、2通りの現実(というより「現実」と「悪夢」?)が二重写しになっているような感覚をもたらす


しかし、今回は「メール」というコミュニケーション・ツールがあったことで、ずいぶん助かりました。
フェイストゥフェイスでは、落ち着きを取り戻すのに、どうもここまで助けにはならなかったような気がする。
と思っていたら、近くの市立図書館で借りてきた本の一節に、次のようにあるのを見つける。

私はここ数年、教育に関する問題について、メールでの相談を教員を中心に受け続けていますが、メールの相談には、対面の相談とは違う特色があるように感じています。
手紙にしても、メールにしても、文章を用いてカウンセリングをする場合に、いくつかの特色があります。第一は、「カタルシス効果」です。対面のカウンセリングでもこれと同じ効果がありますが、自分の悩みを表現することは、それだけで心を癒していく力があるようです。……。
不登校問題のためのメール相談のほうはすでに終了したのですが、継続して相談を続ける方のために、アドレスは閉じていません。ところが、「もう返事がいただけないことはわかっています」と前置きして、新しい方からメールが到着することがあります。
そのメールでは、自分の思いや考えを、長々と書き連ねます。そして、そのメールの多くは、「読んでいただくだけで十分です。ほんとうにありがとうございました」と結ばれるのです。申し訳ないことに、返事を差し上げてはいないのですが、それでもよいようなのです。読んでもらえる人を仮定して、自分の思いを書き連ねること、それだけでも気持ちが落ち着いてくるのでしょう。ご自身で「カタルシス効果」を得たいのだろうなあということなのだと思っています。

(小林正幸『なぜ、メールは人を感情的にするのか』ダイヤモンド社、2001年、p.172-3)


今回の私の場合も、まさにこれで、メールの返信をもらうよりは、書くこと自体がある種の「救い」(あまり好きなことばではないが)になった。
ただ、こういう一方的な言語行為の行使は、言うまでもなく、聞き手に対する傲慢さをもっている。
聞き手の応答可能性をある意味で奪うものだから。
サバルタン的状況に追い込む、と言いかえてもいいかもしれない。
「弱さ」をもって相手の応答を封じる「ルサンチマン」的行為に堕するまで、あと一歩の距離にある。
私は「貴族」的な強さをもちえなかった。
しかし、コミュニケーションを初発させるもの、駆動させるものとは、「弱さ」であるのかもしれないとも思う。
それが「サバルタン」「ルサンチマン」的状況につながるまでの距離は0に限りなく近いものの、おそらく0ではない、ような気がする。
その無限小の距離をどう見きわめていくか。
いずれにせよ、私のメールを甘んじて受けてくださった方々に、大きく感謝。