脳細胞が8割がた動いてない感じ。
ふだんも3割くらいしか稼働してない感じですが、さらに機能低下。
おとといあたりからですかね。
ほとほと休みたいが、2限、3限と何とか授業を消化しましたです。
こういう日は単純な事務仕事を片づけるに限る、というわけで、ようやく調査報告書の抜き刷りを発送しました。
明日あさってにはお手元に届くと思いますので、ご請求いただいた方がた、今すこしお待ちください。


今週末は東京に出張しておりました。
土曜の夜は、大学院時代の後輩Nくんに3年ぶりくらいに再会。
お茶の水の居酒屋で、仕事のグチなどもこぼしつつ、まったりと酌み交わす。
こころ落ち着くひとときでした。


翌日は、ある学会の編集委員会
てきぱき、さくっと終了するだろうという見込みが外れ、夕方までかかる。
学会誌の表紙のデザイン変更について、エディトリアルデザインの初歩の初歩もふまえていない案があったので、若干意見を述べる(つうか、けなしまくる)。
さすがに多摩美の院生に出してもらった案は、その点で安心してみてられるものだったので、ほっとしつつ。
しかし、この案件について思いの外、議論が錯綜し、このあたりから脳が活動を停止し始める。


その夜は、西日暮里の焼き肉屋へ。
Kさん(+その院生さん)、Uさんと半年ぶりに再会。
早めに着いたので、前日にゲットした『月刊言語』6月号の収録論文を3つほど読む。
特集「〈言語の起源〉再考」。
京都の国際シンポジウム「言語起源論再考」の報告をいくつか、短くまとめたもの。
イシューエディターは、シンポの企画者でもある正高信男氏。
この号は「あたり」でした。
正高さんの研究の体系的な幅広さ(単に何でも手を出すんではなく体系的な)って、やっぱりすごい。
翻って我が身をみるに、反省することしきり。
自分の場合、能力的限界のほうが大きいのだが、流すしごとは流して、研究労力・時間のリソースの配分をきちんと考えねば。


焼き肉屋に入り30分ほどした時点で、思いがけず、大学院時代のわれわれの先輩(つうか師匠)であるEさんが顔を出してくださる。
前にお会いしたのはロンドンへ在外研に出る前でしたから、3年半ぶりくらいだったでしょうか。
そんなこんなで呑んで食ってしているうちに、終盤のほうの記憶が消えていた。
脳が活動を放棄した証拠ですかね(ま、院生時代からよく記憶はなくすたちでしたが)。
ホテルにどう戻ったのか、おぼえていない。
二日酔いにはならなかったんですけど。


おかげで、翌日、Kさんと編集者のかたとの待ち合わせ場所を間違える。
東京駅の丸の内口のほうで待っていたら、時間がすぎてもだれもあらわれないので、Kさんの携帯に電話したら、八重洲口であったことが判明。
そうでした、確かに前日、八重洲口のほうでと聞いておりました。
記憶がようやく活性化し、あわてて八重洲口へ向かう。
茶店で1時間ほど打ち合わせたのち、新幹線へ。
爆睡、といきたいところが、なぜか妙に眠れない。
疲れている、眠い、のに眠れない、というパターンがなぜか最近多い。
しかたないので、神保町での別口の打ち合わせの合間に、三省堂でゲットしたStephen Schifferの久しぶりの単著"The Things We Mean" Oxford U.P.(2003)をめくりはじめる。
案の定、1章を読み終えないうちに、ウトウトしはじめる(笑)。


内容が退屈ってわけではなく、言語哲学系のそこそこテクニカルな議論って、集中力の乏しいときに読むと、念仏的効果があって(私の場合)。
東京行きの新幹線で読んだ、森本浩一『デイヴィドソン〜「言語」なんて存在するのだろうか』NHK出版(2004年)のときは、さくさく最後のページまでたどりついたんですけど。
短い本ですが、これは入門書としてはとてもいい本じゃないかと思う。
テクニカルな議論に深入りしすぎず、しかしエッセンスはきちんとつかんであって、わかりやすく書かれている。
もちろん、短い本なので、デイヴィドソンのコミュニケーション論という側面に焦点が絞り込まれてはいますが、その割り切りかたが私のような門外漢にとってはありがたい。
錯綜した森のおおまかな地図を大きな道にそって書いてもらった感じですかね。
デイヴィドソンを読んでわかってるはずのことを、改めてすっきりまとめてもらうと、何というかコロンブスの卵的にすっきりするところもあり。


同シリーズ「哲学のエッセンス」7月配本の、飯田隆クリプキ〜ことばは意味をもてるか』も楽しみ。
そうそう、いよいよ6月なので、『反社会学講座』(イーストプレス)も出版されますね。
わたしも帯かどこかに、推薦駄文を寄せております。
それに惑わされず、買うべし(笑)