講義の反応

今日、私の担当している「情報メディア論」という講義で、話が一区切りついたので、出席調査をかねて授業の感想や質問などを書いたもらった。


この1ヶ月くらいのユニットでやっていたのは「暴力的な内容のテレビ(ゲーム)の影響」のお話。
ごくおおざっぱに言うと、これまでにおこなわれた社会心理的な調査・実験研究で代表的なものをいくつか紹介しつつ(詳しく紹介していると、それだけで半年かかってしまうので)、それぞれの知見の妥当性・問題点を指摘、検討していく、つう内容。
「テレビ(ゲーム)暴力に接触することが原因となって、攻撃性・暴力性が実際に高まるのか?」つう、肝心の答えについては ...... 「わからない」ってのが結論だったわけですが(笑)


より正確には、「決定的なことは(まだ)わかっていない」。
ただし、これまでに得られた研究結果を総合的に見渡すと、答えはYESである可能性のほうが高い。
かなり多くの研究が(それぞれに限界はあるものの)「クロ」の証拠――状況証拠、といったほうがいいか――を出しているから。
そのことは講義のなかで伝えた。
しかし、私が受講生に最もわかってほしかったのは、そういう「結論」ではない。


ありがちな言い方になるが、むしろその「結論」にいたるプロセス、思考のしかたを先ずわかってほしい。
そのうえで、その「結論」がどのくらい確からしそうなものであるか、その見きわめ、見切りをそれぞれにつけられるようになってほしい。
いかに「科学」的、「実証」的に厳密な方法をとった研究であっても、特に社会学的な問題の場合、最終的解答、「究極の真理」には達しえない。
では、何も確かなことはわからないのか。
そうかもしれない。
しかし、確からしそうなことはわかる。
それを「確かな」ことと信じこむのでなく、そのまま「確からしそうな」こととして受けとめること。
その結論に対する疑い――畏れ、といってもいいか――を解除してしまわず、保ち続けること。
そのうえで、現実の問題への対応策(暴力的内容のメディアコンテンツにどのような規制をどの程度かけるか/かけないか)の実効可能性とリスクを値踏みすること。


「究極の真理」という確固たる岩盤のうえに拠って立つことはできないかもしれない。
私たちはおそらく、いわゆる「ノイラートの船」に乗っかることしかできない。
「ノイラートの船」はつねに沈没の可能性にさらされている。
しかし、少なくとも沈没したくないのであれば、沈没可能性のより少なそうな船の作りかたはある、と私は思う。
私が講義でわかってほしいのは、そうした「ノイラートの船」の作りかたにおけるリスク(沈没可能性)/実効性(沈没回避可能性)の見積もりかた、見切りかただ。
だって、むやみやたらな作りかたをして沈没しちゃうよりは、よ〜く考えて、それでも沈没しちゃったほうが、まだ割り切れるじゃん。
少なくとも、さして考えもせずに「こうすりゃ沈没せんのだああ」とがなりたてる大声にふりまわされて、心中するのだけは私はイヤだ。
多数決で船の作りかたを決めるにせよ、何も考えない多数派に負けた結果、沈没して心中するのは私はイヤだ。
向こうは向こうなりにきちんと考えていて、それでも見積もりかた、見切りかたが違った、その結果、多数決で負けて、結局心中することになった、そのほうがまだマシ。


書いてもらった感想をざっと読んでみたところ、やはり予想通りというか、ここのあたりのことはあまりしっかり伝わっていないように思える。
今年に限らず、例年そういう印象を受ける(ので毎年ちょこちょこ工夫してはいる)のだが。
結局のところ、悪影響はあるのかないのか、結論がよくわからない、という学生さんもいる。
それはそうかもな、とも思う。
少なくとも、話を聞いてすっきり、というわけにはいくまい。


「先生が何か必死に伝えたいことがあるというのはわかる」という学生さんもいる。
必死、つうほどではないんですが(笑)、そういうことを何とか少しでも伝えたいわけで。
教える側の自分の能力の限界かな、とも思う。
何かを疑うことを教えるのは、何かを信じることを教えるのより、むずかしい。
いや、何ごとも疑ってかかれ、批判的な目でもってかかれ、というだけならまだ易しいかもしれないが、疑いをむけたその先に、それでもどう立脚するか、しうるか、ということ。
これはやはり、そうそうわかりやすい話ではあるまい。


先日、ちょうど「社会調査(法)について何か本を書いてみないか」というありがたいオファーがあったばかり。
これを機会に、このあたりのことを含めて、もうちょっと考えめぐらして、まとめてみたい。
遅筆ゆえ、いつごろまとまるかは、本人にも謎ですが(笑)