演芸場としての動物園?


こういう付録みたいな遊園地というか遊戯施設というか、日本では珍しくもないだろうが、ヨーロッパの動物園では見たことがない。
たいして巡ったわけではないが、ロンドンの動物園にも、ダブリンの動物園にも、バルセロナの動物園にも、なかった。
このあたり、西欧と日本では、「動物園」なるものの社会文化的位置づけが異なるのかもしれない。
渡辺守雄ほか『動物園というメディア』(青弓社、2000年)の6章「日本の動物園の歴史」には、ちょうど天王寺動物園(むかしは動植物公園)を記述した箇所に、次のようにある。

一九三二年(昭和七年)七月二十三日、大阪市天王寺動植物公園に一頭のメスのチンパンジーが来園した。この個体はリタと呼ばれ、ドイツですでに調教されていた。翌年から、天王寺動植物公園はリタ嬢の芸を公開する。……。人気が上がるにつれ、リタの芸はタバコを吸ったりと低俗化に拍車がかかったという。しかし、これに入場者は拍手喝采した。この成功は多くの動物園を追従されることになる。ゾウがその巨体を器用に操り芸をすることは、まさに動物園のハイライトとなっていった。こうなると利用者にとってサーカスと動物園の境目などあってなきに等しくなる。現在、動物園を訪れた入園者が、動物の芸を期待していることはあまりないだろう。ところが、一九六〇年前後の日本動物園水族館協会の年報を見ると、一九六三年(昭和三十八年)まで演芸動物調べという項目があるのに驚かされる。

(p.156-7)


そういわれてみると、日本の動物園てのは確かに「演芸」的空間であるような気がする。
立地条件からしても、通天閣そびえる新世界の隣にあるし、もともと天王「寺」参詣のお楽しみプレイスとして発展した界隈だろう。
そういや、京都の動物園も(美術館とともに)平安「神宮」のそばにある(上野動物園ももちろんそうだし)。


大阪で「演芸」というと、ただちに「文楽」を思いおこすわけだが、これはよく形容されるような「総合芸術」では断じてない。
先月、「義経千本桜」を見に行ったのだが、まあ、何でもアリの世界なのだ。
伏見稲荷の鳥居の書き割りの上のほうがパカッと割れて、狐役の人形遣いが飛び出してきて、ワイヤーにつるされて宙を舞うんだから、ちょっとビビリました。
遣ってるのはおそらくは御歳70過ぎの無形文化財人間国宝ですぜ。
とにかく楽しんでくれオーラのようなものが充満する空間で、これは諸「芸術」が「総合」されたものではなく、やはり諸「芸術」に分節化されない、まさに遊動的な「演芸」空間というほかない。
分節された作品空間を「鑑賞」することに慣れた視線からすると、こういう遊動的な「楽しむ」ための空間というのは、初めちょっと戸惑ってしまう。
どうしても視線が定まらない、落ち着かない。
太夫さんの声は人形とはちがった所から出てくるし、囃子もまた別のところから流れてくる。
人形だって遣い手の顔が見えてるし、つい、人形よりそっちのほうが気になったりする。
岩場のシーンで小道具がひっかかって遣い手さんが演技でなく上にあがるのに苦労していたりするのもわかるし。
そのことに気がつくと、「鑑賞」の邪魔になって、集中できなくなる。
それがおそらくは「芸術」なるものの「鑑賞」のしかた。
そのことに気づいても、そのこと自体も「楽しみ」のうちにとりこんでしまえる。
それがおそらくは「演芸」なるものの「楽しみ」かた。
前々列に座っていた欧米人らしき一団は、明らかにどこをどう「鑑賞」していいか戸惑っていた様子だった。
空間をまるごと身体で「楽しむ」のに慣れていない点では、私も大同小異。
つい「鑑賞」するための焦点のようなものを、どこかで探してしまう。


この点では、子どものほうが素直に「演芸」的空間を楽しめるのかもしれない。
動物園でも、私などは、他の動物園では見られない動物はどこにいる、とか、このケージには何種類のコウモリがいて、どれがどれだ、とか、つい「鑑賞」の焦点を探し求めてしまうのだが、子どもはそんなことはしない。
「鳥さんがいっぱいいるねー、きれいだねー、あ、あそこにアンパンマン号もある、乗りたいー」ってな具合。
「今日はどれがいちばんおもしろかった?」と訊いても、「動物園!」ってな具合。
いや、ごもっともです(笑)。


演芸空間としての動物園。
老後のお楽しみ研究課題としてとっとこう。


ディズニーランドが日本で成功したのも、案外、「演芸」的空間の要素をもっていたからかもしれない。
いや、やっぱり違うか。
まあ、いいや。