心理学化する社会

の著者でもある斎藤環さんが『中央公論』3月号に「「有害なわいせつ性」という社会通念こそ有害である」という文章を寄せている(『心理学化する社会』と直接関係する話ではありませんが)。
例のマンガ『蜜室』のわいせつ性を問うた裁判の判決に関するコメンタール。
(しかし、判決直後に二次元(裏)系のアップローダサイトをいくつかのぞいてみたが、驚くほど反応がうすかったなあ、それ以前の報道の時にはちらちら出てきてたのに)

性情報が性犯罪をもたらす危険性については、いまだ立証されていない。しかし社会が性情報に寛容であることが、カタルシス効果によって、性衝動や性犯罪に対して抑止的に作用することについては、複数の報告がある……。しかし、どれほど学問的に厳密な立証をしてみせても、わが国の裁判制度がそれと無関係に判断を下すのであれば、そのような議論をしても空しいだけだ。

(p.54-5)


まったくです。
少なくとも日本の場合、メディア情報が性衝動なり暴力性・攻撃性なりにあたえる影響についての学術的研究成果が、裁判に限らず、報道や世論形成においてもあまり重んじられているように思えない。
もちろん、たとえば学者がテレビ番組に登場して、これまでの研究からいえることを述べたりすることはよくある。
ただ、その扱いかたがいかにも「お飾り」的なのだ。
学者「暴力的な内容のテレビゲームが暴力的な人格の形成を促すことをはっきりと立証した研究は、今のところないのです」
司会者「そうですか、でも学問的な一般論としてはともかく、今回の事件の場合はどうなんでしょうね、Aさん、いかがですかね?」
と、番組の意図にそったことを言ってくれそうなAさんに話をとっととふるとか。
学者「(同上の発言)」
司会者「そうですか、いずれにせよ、私たちは今この問題を真剣に考えなくてはならない時期にさしかかっているようです、ありがとうございました、それではみなさんまた来週」
と、とりあえず〆の前ふりに使うとか、ね。
アメリカのテレビの場合(そんなによく見たことがあるわけではないが)、もう少し扱いはましに思える。
番組制作者の意図がすかしみえるところもあるけれど、「とりあえず、学者のコメントも飾っとけや、少しはしまりもでるだろ」的な扱いではない。


そもそも、何か事件がおこるたびにメディアの悪影響がよくとりざたされるけれど、「じゃ、予算を重点的につけるから、学者ども、その研究に取り組めい」という話にはあまりならなかった。
短期的な影響だけなら実験研究や単発の調査研究でもできるが、短期的な影響はすぐに消えてしまう可能性もある。
一番の問題ははたして長期的にみて人格形成や「脳」に影響があるかどうかだ。
長期的な影響をきちんと検証しようとすれば、億単位の研究予算がいる。
「脳」のほうには、最近になって、けっこうな予算がついたようだ。
さすがブームの「脳」研究(笑)。
社会心理学的研究のほうでも、10年単位での長期的なパネル調査をやることになった、という記事をどこかで読んだ気がする。
この面では、状況改善の兆しはみえる(マスコミ報道も新聞はちょっとましになった気がする、テレビはどうしようもないが)。
それはいいから、オレにも金をくれ(笑)。
億単位の予算がついて、10年単位のパネル調査が可能なら、やってみたいことは山ほどあるのだ。

ただし、ひとつだけ警鐘を鳴らしておこう。
二〇〇三年十二月十五日、…中学三年男子(十四歳)が、小学六年の妹(十二歳)を鉄の棒で殴るという事件があった。……。犯行の動機について、男子生徒は「インターネットで殺人に関する内容のホームページを見ていて殺したくなった」などと供述しているという。
実は最近、この種の「動機付け」が目立ってきている印象がある。
…(中略)…。
何が言いたいかおわかりだろうか。……。裁判官や条例改正論者が提唱する「有害なわいせつ性」なる社会通念が、青少年の犯罪者に、格好の「いいわけ」を提供しているのではないか。「殺人サイトを見ていたら妹を殺したくなった」といういいわけの破綻ぶりは、それが稚拙な口実にすぎない可能性を強く示唆する。
メディアが犯罪を助長するという、根拠なき強力効果仮説は、少年法と三九条に加えて、加害者に新たな免責と責任転嫁の根拠を与えることになりかねない。直接の加害者は免責されかねず、表現者はその間接的な加害性によって罰せられる。これが理不尽な判断でなくて何だろうか。

(p.55)


基本的な論旨には賛成なのだが、この少年の「いいわけ」は「いいわけ」なのだろうか。
本人にインターネットの影響を「いいわけ」として使っているつもり(意図)はあるのだろうか。
そのつもり(意図)なき「いいわけ」である可能性も考えられる。
殺人衝動の原因・理由を本人にも「意識」化することができず、殺人サイトに「誤帰属」させたのかもしれない(ここを参照)。
本人は、取り調べに応じて、相手にわかりやすい原因を「無意識」のうちに(つまり、本人もその取り調べ状況ではそれが真の原因であると信じきって)提示したのかもしれない。
その取り調べ状況をはなれたとき、はたしてその少年は、殺人サイトは「真」の原因ではないと思うことがあったのだろうか。
何が原因かを自省するようなことはあったのだろうか。
「いいわけ」とは、その場をとりつくろうためになされるものだ。
別の場では違うことを考えているが、その場では「いいわけ」をしてその考えを隠す。
ある状況Aで言ったことと、別の状況Bで考えた(あるいは言った)こととに違いがあり、かつ、本人にとって状況Bで考えた(言った)ことへのコミットメントのほうが、状況Aで言ったことへのコミットメントより高いときに、状況Aで言ったことは「いいわけ」になる。
取り調べ状況を離れて、少年が別のことを殺人の原因と考えていたとしても(あるいは何も考えなかったとしても)、取り調べで言ったことはそれはそれで「本当」だと思い(コミットし)、取り調べを離れて考えたことはそれはそれで「本当」だと思う(コミットする)。
状況に応じて「本当」だと思うことが替わり、しかも、そのことに拘泥することもなかったとしたら、それを「いいわけ」と呼ぶことはできるのだろうか。


「いいわけ」という概念は、自己の一貫性を前提にしている。
その一貫性からはずれた発言がなされたとき、その発言は「いいわけ」とみなされる。
一貫性のない自己、複数の自己が「解離」しつつも「分裂」はせずにゆるやかにたばねられているような自己のありようを考えたとき、「いいわけ」という概念はその意味を半ば失う。
それは「解離のポップ・スキル」をもった自己のことだ。
もちろん、件の少年がそのような「解離のポップ・スキル」の持ち主であるかどうかはわからないし、そのことを問題にしたいわけではない。
あくまで一般論として、「解離のポップ・スキル」をもった自己たちを相手にしなくてはならないとき、これまでのように一貫的な自己を前提とした概念や制度が半ば通用しなくなる、そのことを問題にしたいだけだ。


貫状況性のくびきから解きはなたれることの軽やかさ(=ポップさ)。
それはまた、行為の「責任」(なる概念)を、その行為をなした状況・関係のなかにつなぎとめたまま、自己から切り離す=「解離」させることの軽やかさでもある。
その軽やかさへの欲求が、おそらく社会的に高まりつつある。
その軽やかさのなかで、行為の「責任」「理由」は、行為の「原因」に置換されつつもある。
膝頭をたたかれて、足がぴょこっと上がるという反射行動がある。
この足の動作をなした「理由」はない。
膝頭を叩かれたことは、足の動作の「原因 cause」であって「理由 reason」ではない。
だから、何かのはずみで膝頭に物があたり、上がった足がたまたま人にあたって、崖下に転落させて死に至らしめることになったとしても、「どうしてそんなことをしたのか」と「理由」「責任」を問いただすことはできない。
膝頭に物があたったという状況では、そうする(足を上げる)以外に、選択肢はなかったのだから。
選択肢があるときに、こちらを選択し、あちらを選択しなかったのはなぜか。
その「なぜか」に答えるものが「理由」だ。
(「選択」という媒介項を経ずに、Xという出来事にYという出来事がつづくのは「なぜか」に答えるものが「原因」。)


オウム事件で話題になった「マインド・コントロール」にせよ、サブリミナルにせよ、それらは行為の「原因」を問うものだ。
その問いかたには、連続射殺事件で死刑に処された永山則夫が自らの行為の「理由」「責任」の所在として、貧困をもたらす資本主義社会(のイデオロギー)を問うたのとは、本質的な違いがある。
永山の場合、社会は資本主義体制以外のありようを選択しうるものとして措定されている。
しかるに社会が資本主義体制を選択したことの「理由」「責任」を問うわけだ。
そこでは、社会は選択をなしうる「主体」であって、個人という「主体」から社会という「主体」への、「理由」「責任」の置換がおこなわれているのだ。
マインド・コントロール」する集団なり社会なりは、そうした選択をする「主体」ではない。
むろん、マインド・コントロールする/しないの選択肢はありえたはずだが、マインド・コントロールは別様にもありえた行為としてよりむしろすでに起こってしまった所与の出来事としてみなされる。
マインド・コントロールする集団や社会は、出来事の「原因」として位置づけられるのだ(結核の「原因」として結核菌が位置づけられるように)。
その「原因」から「結果」に至るプロセスの解明を期待されるのが、心理学。
心理学は(folk psychologyはともかく)、自然科学的な発想のもと、原因‐結果の連鎖の体系として、人間の心を理解しようとするものだから。
行為の「理由」「責任」を問うのは、倫理学
心理(学)的なるものの肥大と、倫理(学)的なるものの縮小。
心理学化する社会」とはそのことをいう。
心理(学)の肥大と倫理(学)の縮小は、どこかで均衡に達するのか。
それとも、徹底的に心理学化がすすんで、原因‐結果のシステムとしての社会のなかに、「自己」や「主体」は溶解していくのか。
個人的な趣味としては、どっちかってえと前者を望みたいところもある今日この頃。