動物的イメージ消費?

もうひとつ、北田さんの鑑賞記で気になったのは「アートで落すのはいかがかな?とは思ったけれども」というところ。
単なる連想にすぎないのだけども、「マスコミ制作実習」という授業で学生の作ったあるビデオ作品のことを思い出した。
それは、ある学生の家族の話をとりあげたドキュメンタリー(というか実話の)作品。
お父さん亡きあと、家計をひとりで支えるお母さん。
しかし、今は重い病気を患う。
きょうだいは不登校からひきこもりに。
そうした家族の現在と歴史を、写真を中心にしてふりかえっていく。
テーマとしては(私が直接その学生を知っていることもあるが)かなり泣けてくるものだった。
ただ、何というか、あまりにそのテーマのあつかいというか演出というかが、きれいすぎるのだ。
もちろん、重いテーマは重苦しくあつかわなくては、ということではない。
重いテーマを美しいイメージカットで構成していくことで、はじめて伝わるものもあろう。
しかし、きれいにまとめすぎているところが、私にはどうしてもひっかかった。
その結果、フィクションなのかノンフィクションなのか、作品を観ただけではわからないものになっている。
「現実」というのは、美しいイメージで語られることのなかから、こぼれゆくものにあるのではないのか。
そのこぼれゆく「沈黙」を囲いこむために、(ことばによるのであれイメージによるのであれ)「語り」というのはあるはずではないのか。
私の感覚が古い、というだけのことかもしれない。
この作品は、講評会で学生の選ぶグランプリをとった。
私も今回の作品群のなかでは、最もいい作品のひとつだとは思った。
これをグランプリに選んだ学生たちは、「観る眼がある」というべきかもしれない。
ただ、その作品に対する反応のしかたに、やはりひっかかるところがあるのだ。
美しく語られるイメージそれ自体に情緒的に反応しているのではないか。
フィクションかノンフィクションかは、そこでは問題にされていない。
しかし、その違いは私にとっては大きい。
ウィトゲンシュタインではないが、語られえぬものの示すために語ることはある、という倒錯的(笑)な感覚を私はもってるもんで。
いっしょに作品を観ていた同僚(といっても私よりずいぶん年上だが)の先生もやはり、この作品を「ノンフィクション」であることをもって、評価していた。
もちろん、「ノンフィクション」であるがゆえに、そのあまりにきれいにまとめすぎた「語り口」には難があるという留保つきで。
その先生がいうには、この作品をグランプリに選ぶのは、今の学生もまだ観る眼がある、ということだったが、私の感触は少し違う。
彼ら彼女らは、これが「フィクション」であったとしても、グランプリに選んでいたのではないか。
そんな気がどうしてもしてしまったのだ、会場での・その後の懇親会での学生さんたちの反応をうかがうに。
「フィクション」であったとしたら、この作品は、葉鍵系のよくある陳腐な泣けるストーリー(つうよりイメージの断片)にすぎない。
私はそんなものを「よくできました」とほめる気はおこらない。
動物的なデータベース型物語消費者と、私を含むそれ以前(ポストモダン以前)の感覚の持ち主の作品評価が、表面的には一致してしまう。
であるがゆえに、そこに問題があることは気づかれにくい。
その気づきにくさこそが、今の世代論・若者論のかかえる問題ではないか。


数年前、ある芸大生の制作したビデオ作品を制作実習の学生さんたちに見せたときのことを思い出す。
その作品は、寝たきりの状態にある自分の祖母を冷徹ともいえる視線で映しだしたドキュメンタリー。
介護してくれる嫁や息子、孫に対するぐちや文句までをも、ありのままに「醜く」映像に定着させている。
本人に向けて「おばあちゃん、甘えてるんじゃないの」という問いかけが感傷を交えずになされ、そのインタビューの様子がそのままに収められている。
きれいに映像化しようともせず、何か結論を提示しようともせず、淡々と「現実」(むろん括弧付きの「現実」であるにせよ)が切り取られてゆく。
その凄みに、私は衝撃を受けた。
これまでにみた映像作品のなかでも、最大級のものだったかもしれない。
この作品をみせて、学生に感想を書かせてみたのだが、その「凄み」に絶句してしまうような反応はごく少数だった。
むしろ、「自分の祖母のこんなすがたを人目にさらすなんて、かわいそう」とかいう情緒的な反応や、「現代社会における介護の問題を考えさせられた」とかいう優等生的な反応が目についた。
がっかり。
という以上に、こんなことを感じさせられた。
情緒や優等生的紋切り型によって、何らかのかたちで「まるめこむ」ことをしないと、彼ら彼女らはどうしようもないのではないか。
「現実」や「人間という存在」をそのままに受けとめて絶句する、というような畏怖のありようが困難になっているのではないか。
制度的な「授業」という枠のなかで見せたのが悪かったのかもしれないが。


別に、現実に目覚めよとか、実存に畏怖せよとか、生の実感をとりもどせとか、俗っぽいお説教をたれたいわけではない。
むしろそんな道徳的判断をしばらくは控えて、問題の在処をきちんと指摘・分析していきたいと思うのだが、それをしようとすると、なにかしら亡霊のように道徳的語彙がまとわりついてくる。
その点がはがゆい。