サブリミナルのどこが悪い?

日テレが「マネーの虎」のオープニング映像で1万円札のカットを0.2秒(1秒30フレ中の6フレ)挿入していた、という報道が昨日あった。
以前ほど「サブリミナルだ、サブリミナルだ、うあああ」というお祭り騒ぎにはならなかったようだ。
もう聞き慣れて飽きたということなのかもしれない。
いずれにせよ落ち着いた反応は好ましいことだと思うが、依然としてちょっと気にかかるところもある。
サブリミナルはよくない。
それはわかる。
自分の知らないうちに他人に操作されているのは、私も好きじゃない。
ただ、今回のはサブリミナル−カットと言えるのか?
0.2秒というのは短そうに思えて、けっこう長い。
NHKアナウンサーの比較的ゆったりしたスピードで読みあげて、1分に400字くらい読める。
1秒に6文字強、0.2秒で1文字は読める。
はっきり音として聞き取れるわけだ。
単純な類推はあやういところもあるが、おそらく0.2秒のカットはだいたい何が映ったか意識できるのではないかと思う。
私は実物をみていないので、もちろん断言はできないが。
サブリミナル刺激は、あくまでサブリミナルでなくては=意識できてしまっては、効果がない。
と言い切ってしまうと誤りになるところもあるのだが、たとえば、これまでの信頼に足る実験で確認されているサブリミナル効果については、次のような解釈が定説となりつつある。


100分の1秒の単位で、多角形Aを瞬間呈示すると、何か映ったかどうかの判断の正答率はランダムレベルにとどまる。
つまり、意識されないのだが、それでも被験者にその後で、サブリミナル呈示した多角形Aと別の多角形Bを示して(これは十分に意識できる時間をとって)「どちらが好きか」を判断させると、Aの方が有意に多い確率で選ばれる。
この実験結果は、知覚系(見えたかどうか)より情動系(好きかどうか)の反応のほうが速くおこなわれることを示すものと解釈されることもあったが、ボーンシュタインという研究者は、この手のサブリミナル実験についてメタ分析をおこない、知覚流暢性という概念でもって、より説得的な解釈をうちだした。
サブリミナル呈示された多角形刺激は、知覚系の神経を活性化させはするが、意識できるほどの活性レベルにまではいたらない。
ただ、ある程度活性化しているから、その後、同じ多角形Aをみせると、別の多角形Bよりも知覚が「流暢」に(=当該の多角形刺激を情報処理する知覚神経系の活性化がスムースに)おこなわれる。
そのことによって、多角形AはBより何となく浮きたってsalientに見えるような印象がうまれる。
しかし、被験者はAがsalientに見えるわけ(サブリミナル知覚したこと)を意識できない。
だから、被験者はどちらの多角形が好きかと訊かれると、「自分はこの多角形Aの方が好きだからsalientに見えるのだ」と、saliencyの原因を好き嫌いへと誤帰属してしまう。


さて、呈示刺激が意識できるレベルで知覚されると、この誤帰属のメカニズムははたらきえない。
だから、人々の選好を操作しようとすれば、少なくとも意識できないレベルで刺激を呈示しなくては、サブリミナル効果のおこりようがないわけだ。
まあ、サブリミナル実験には、図形などの知覚実験以外にもいくつかあって、認知レベルでも確認されているものがある。
ある単語(たとえばblood)をサブリミナル呈示すると、何か見えたかどうかの判断はやはりランダムレベルなのだが、その後、flesh(肉)という単語を示して、「先ほど映した単語とこの単語の意味が似ているかどうかを、あえて判断してみてください」と回答を求めると、正答率がランダムレベルより有意に高い、という実験結果もある。
この場合は、単語の形ではなく意味のレベルでのサブリミナル効果なので、先の知覚流暢性による説明はあてはまらないのだが、この認知レベルでのサブリミナル効果にしても、意味連想のレベルまでであって、メッセージ解釈のレベルで効果を確認した実験はない(はずだ)。
Drink Cokeをサブリミナル呈示して、そのメッセージどおりに人々が動かされる、といったかたちでのサブリミナル効果は確認されていないのである(半ば伝説的にこのDrink Cokeの実験が一般に知れわたってはいるが、この実験結果が捏造であったことは後に明らかになっている)。
しかも、サブリミナル効果を確認した実験は、あくまで実験状況のもとでのものにすぎない。
つまり、サブリミナル刺激を呈示したあと、他の余計な刺激を被験者の知覚・認知系にあたえないようにして、すぐに判断試行にうつる、という状況のもとでのものなのだ。
日常生活でのテレビ視聴の場合、サブリミナル‐カットが挿入されたとしても、その後ただちに別の視覚・聴覚刺激が間断なく強烈に続くことになる。
仮にサブリミナル‐カットによる効果があったとしても、おそらくその後に続く刺激によってほとんどかき消されてしまうだろう、というのが妥当な推測に思える。
だいたい、人間がスプラリミナル&サブリミナルな刺激のすべてを処理し、いちいちそれらのすべてに影響されていては、人間の情報処理のキャパシティをはるかに超えてしまい、まさに神経がもたないだろう。


もちろん、サブリミナル‐カットを積極的に使っていい・使うべき倫理道徳的理由もないし、サブリミナル効果によって実際に人々が影響される可能性がわずかなりともあるのであれば、その使用は禁じられてしかるべきだろう。
ただ、0.2秒→すごく短い→サブリミナルでしょ→悪いこと、という条件反射的な反応はどうなの?と思ってしまう。
毎日新聞2月16日の記事に掲載された「稲増龍夫・法政大教授(メディア論)の話」には、次のようにある。

……。視聴率を上げる目的など、制作者が自らに有利な行為や感情を視聴者に誘発しようとしたわけではなく、遊び心からだと思うが、いかに弁明しようともサブリミナルに間違いない。……

稲増さんにはむしろ「これはサブリミナルじゃないでしょ」と言ってほしかったがなあ。
だって(たぶん)サブリミナルじゃないもの。
表現の自由という観点からして、短絡的にサブリミナルのレッテルを貼りつけ、条件反射的に糾弾してしまうのはいかがなものか」とか何とか、あえて言ってみる人がいていいような気もする。
そんな気がしたので、ちょこっと書いてみた次第でした。