なぜ卒業論文を書くのか

辻ゼミとしては卒業論文集をまとめるのはこれが初めてである。そこで、今後これを読む後輩ゼミ生たちのために、なぜ卒論を書くのか、卒論に何の「意味」があるのかを説明しておきたい。すでにこうして卒論を書き終えた3期生のなかにも、とにかく書かなくては卒業できないから、くらいに思っている人もいるかもしれない。しかし、それは決して、閉じられた大学のなかでしか通用しない無意味な通過儀礼ではない。そのことをあらためて説明して、みなさんへのはなむけのことばとしたいと思う。
特に社会学部や文学部の場合にいえることだが、確かに、卒論で研究した内容そのものは社会にでてからのしごとや生活に直接は役に立たないものであることが多い。私の場合をふりかえっても、卒業後に一時コピーライターのしごとをしていたが、卒論(「図形の分類における範疇の形成について」という認知心理学系の論文を書いた)がそのしごとに直接役に立ったという記憶はない。
だが、卒業論文というのは、しごとや生活に直結するようなマニュアル的な知識やノウハウをつめこむためのものではない。むしろ、マニュアル化できないような知――しかしあらゆることに応用できる知――を身につけるためにある。
それは、簡単にいえば、(1)自分なりのオリジナルなものの見かた・考えかたができること、(2)それをきちんとことばに組み立てて、しっかり他人に伝えることができること、だ。なんだ、そんなことか、と思うかもしれない。しかし、これが実にむずかしい。
(1)のほうから説明していこう。人は本来、だれしも自分だけのオリジナルなものの見かた・考えかたをもっている。だが、そのオリジナリティをはっきりと形にしていくには、徹底的に自分の目で見つめつづけ、自分の頭で考えつづける必要がある。それは、おそろしくしんどい作業だ。だから、人はつい無意識のうちに、どこかで知り覚えた――つまり他人の――ものの見かた・考えかたに頼ってしまう。知らず知らずのうちに他人の見かた・考えかたを密輸入して、自分のオリジナルと錯覚してしまう。
では、どうすればいいのか。まず、何か自分なりに「ひっかかる」ものを見つけだすことだ。音楽でもマンガでもマンホールでも何でもいい。何だかひっかかる、気になる、というものを。初めはできるだけ細かく具体的なほうがいい。音楽ならこの曲のこのフレーズといったぐあいに。漠然と大きなテーマや対象をとりあげるより、「ひっかかり」がより明確に焦点をむすぶはずだから。(卒論の場合でいうと、学術的に重要そうな大問題をとりあげないと論文ぽくならないと勘違いしている人がいるが、そういう人はたいてい自分のひっかかりやこだわりを形にできず、オリジナリティのない「レポート」を書いて終わってしまう。)
あなたがそこに感じている「ひっかかり」こそが、あなたのオリジナリティの芽のようなものだ。あなたはまだ、他人の眼でそれを見ており、他人の頭でそれを考えている。しかし、あなた自身の眼と頭は、どこかでその見かた・考えかたにズレを感じとっている。そのズレが「ひっかかる」感じとなって現れるのだ。オリジナリティとは、他人のものの見かた・考えかたとのズレにほかならない。
だから次に大切なのは、そのテーマや対象について、他人がこれまでどんな見かた・考えかたをし、どんなことを言ってきたかを、徹底的に知ることだ。論文でいえば、これが先行研究を調べる作業にあたる。他人の見かた・考えかたをどんどん重ね合わせていくことで、それらと自分のズレを増幅し、「ひっかかり」=オリジナリティをはっきりした形に彫りあげていくわけだ。これに対して「先行研究を読むとそれに影響されるから、オリジナリティを出すためになるべく読まないようにします」などとのたまう人もいるが、そういう人の書いたものに限ってオリジナリティがあったためしがない。オリジナリティとは他人との延々たるズレとしてしかありえない。そのことをわかっていないからだ。
(2)の「きちんとことばに組み立てて、しっかり他人に伝える」というのも、実はこうしたオリジナリティを煮つめる作業の延長線上にある。もちろん、自分なりの見かた・考えかたというやつには、ことばにならないところもある。しかし、ことばにできるところをきちんとことばにしていくことによって、ことばにならないものを追いこみ、囲いこんでいかないと、オリジナリティは形をなさず、消えていってしまう。きちんとことばにならない・できないというのは、その意味で、自分をあきらめた言い訳にすぎない。
そして、ことばによって自分を他人に伝え、その応答によって自分と他人のズレを明確化していくこと。安易にズレを埋めてしまうのではなく、しかし、他人の言うことを頑としてはねのけてしまうのでもなく。自分のオリジナリティを尊重することとは、他者(のオリジナリティ)を尊重することでもある。論文に限らず、あらゆるコミュニケーションの本質は、こうした自/他の対峙と対話にある。
こうした意味での、オリジナルなものの見かた・考えかたができる能力、あるいは、コミュニケーション能力は、これから「生きて」いくうえでとても大切だと私は思う。しごとのなかでその能力が活用されれば、今より多様でおもしろいものの見かた・考えかたが社会に少しずつであれ広がっていくだろうし、別にしごとに限らなくてもよい。他人の眼と頭を借りて(それも知らず知らずのうちに)生きていくより、自分の目と頭で生きていくほうが、愉快でハッピーではないだろうか。他人の生を生かされるのではなく、自分の生を生きること。それはそれ自体で端的に豊かな生きかただろうと私は思う。




えらそうなこと書いているが、まんま自分にはねかえってきてツライところが... いてててて