社会調査の「見切り」かた

昨日、科学的知見なるものを「ベタ」に誇示・受容するなかれ、とエラそうに書いたものの、私自身たいして「見切れ」ているわけではない。
単なるポーズでなく、谷岡一郎さんの『「社会調査」のウソ』なんかを読むと(よくも悪くもアクの強い本ではあるが)、ホントに反省させられるです。
ただ、そんな紙一重の「見切り」にほど遠い私でも、社会調査データを読むとき、これくらいは注意しとるのよ、という点をいくつか。


こういうときは具体例をだした方がわかりやすいと思うので、実際に私が批判を浴びたケースをとりあげてみたい。
さる雑誌での北田暁大さんと香山リカさんとの鼎談で、私は「若者の人間関係が希薄化している」という論に反駁するため、次のようなデータを引いた。

「心をうちあけて話せる友人」
いないいる
1970年24%76%
75年22%78%
  1人2-3人4-5人6人-
80年7%11%58%18%7%
85年8%8%54%19%11%
90年4%7%54%25%10%
これは旧総務庁の青少年対策本部がおこなった「青少年の連帯感などに関する調査」というやつで、これをみると「心をうちあけて話せる友人」のいない人は、70年24%→90年4%に減ってるでしょ、関係が希薄化してたら増えるはずじゃないの、というのが私の言い分。
これを読んだある人のサイトで、次のような「一刀両断」がなされた。

私はこうした調査結果を疑いもなく援用している「学」を信用できない。……自分の頭で考えないことの顕れだと思う……。

この人の言い分の詳細は省くけれども(直リン貼るのも慎みに欠けるのでid:hidex7777:20040202#p4を参照先としときます)、ま、確かに「疑いもなく(=「ベタ」に)援用している」と思われてもしかたがないところはある。
座談会でこのデータをどう「見切」ったかを説明してたら、他のお二方が話す時間もなくなっちまうもんで、割愛しました(割愛しても1ページ分以上しゃべり続けてるもんね)。
正直スマンカッタです(笑)
でも私なりに「見切」ったうえで、確信犯的にこのデータをもちだしているつもりはあるのですよ。
次に挙げるような点を考量したうえで、とかくネガティブにばかり見られがちな今の「今どきの若者」論の風潮のなかで(若者論の系譜を簡単にレビューしたことがあるが、80年代前半あたりまではこれほどネガティブ一辺倒ではなかった)、これくらいのカウンターは出しといても/出しといたほうがいいかな、と。


まずは初歩的な点から。
社会調査には、調査対象(サンプル)をどう選ぶかで、結果の信頼性が大きく変わってくる。詳細は数ある社会調査法の本にまかせるとして、この総務庁調査はかなり信頼性の高いサンプリング手法がとられている。
また、専門家でもややもすれば見落としがちな点だが、回収率もつねに70%以上と高い。一部の人しか答えなかった調査は、それだけバイアスがかかりやすい(調査テーマにそもそも興味のある人しか答えなかった、など)。推測統計学の大家、林知己夫氏によれば「回収率が50%以下の調査は信頼に値しない」とのことらしいが、そこまででなくとも私も近い考えかたをしている。
ただ、回収率は高くとも、性別や年齢層の面で偏りをみせることがある。たとえば一般に、男性より女性の方が回収率は高い。これは、男性がしごとのため調査に訪れても自宅にいないことが多いことによるものと考えられる。この調査でも、10歳代の男女構成比にはあまり偏りがないが、20歳代は女性に偏りをみせている(ただ、この偏りはいつの調査時点でもそうなので、経年比較上はあまり問題にならない)。
こうした点以上に、この調査の場合、おそらく一番注意しなくてはいけないのは、75→80年の「いない」率の減少幅がそれ70→75年/80→85年のどちらに比べても際立って大きいところだ。これはたぶん、ここで設問のしかたが変わった(「いる」「いない」の2択だったのが、「1人」〜「6人以上」「いない」の5択になった)ことによるところが大きいだろう。
しかし、鼎談のなかでの私の発言としては「これで見ると、「心を打ち明けて話せる友人がいない」という人は70年のほうが多く、4人に1人はそうだった。それが90年になると5%を下回り、わずか20人に1人しかいない」と述べている。
これは確かに、75→80年の変化にふれず、70年と90年の両極だけをとりだしているので、フェアな語り口ではない。
返す返すも、正直スマンカッタです(笑)
ただ、80年以降の友人数は明らかに増加傾向にあり、この他の調査でも、友人数はほぼ共通して増加傾向を示している。少なくとも管見の限りでは、友だちのいない若者が増えたことを示した調査はない。
「友だちのいない人の割合は増えていない」ことは間違いないが、「増えていない」と言うよりも「減った」と言うほうがインパクトはある。
私の論旨からすれば「増えていない」ことが言えれば十分なんですが、インパクトという面で色気を出しちまったわけですね。
これは確かに反省すべき点です(「色気」という以上に、ある種の確信犯的「戦略」という面もあるんですが)。


次に、解釈上の問題。
数字のうえでは友だちの数が増えているようにみえても、実態を反映していない可能性があるのではないか、という質問を受けたことがある。たとえば、友だちがいないことを恥ずかしいと思うような社会意識(ある種の規範意識)が高まっていたとしたら、本当は友だちがいないのに「いる」と答える人が増えることになるのではないか、と。
確かに、私自身、学生に接していても「友だち(や恋人)をもたねば」圧力は高まっているように感じるから、この疑問にはうなづけるものがある。
だがしかし。
総理府のおこなった「国民生活に関する世論調査」というのがある。そのなかに「充実感を感じるのはどんなときか」と訊ね、20近く(だったと思う)の選択肢のなかから複数回答させる設問がある。その選択肢には「友人・知人と会合・雑談しているとき」というものが含まれており、それが選ばれる率は1975年以降、ほぼ一貫して増えているのである(特に若年層に顕著)。
さて、友だちがいない人が実情としては減っていないとすれば、この選択肢を選ぶ率は増えないはずだ。この設問は友だちがいる/いないと直結するものではないから、「いないと恥ずかしい」圧力ははたらきにくいからだ。また、20近くもの選択肢からの複数回答だから、この選択肢を選ばないと恥ずかしいなどという意識はさらにはたらきにくいだろう。
したがって、「いないと恥ずかしい」圧力の高まりという仮説は、このデータと整合的でない。
さらに別種の解釈上の問題をとりあげてみよう(これも実際に質問を受けたもの)。
「心をうちあけて話せる友だち」の“定義”が変わってきたのではないか。昔は、深刻な悩みや心の奥底に秘めた恋心といった話が「心をうちあけて」話すものとみなされていたのが、どのタレントが好きとか他愛ない先生の悪口とか、より軽い話でも「心をうちあけて」とみなされるようになったのでは。だとすれば、昔は「知り合い」程度にすぎなかったものが「心をうちあけて話せる友だち」に数えられるようになり、見かけ上(数字上)の増加となってあらわれた可能性がある。
これに対しては、友だちの“定義”について調べた社会調査が過去にあれば、答えがはっきりするのだが、私の知る限り、そうした調査はみあたらない。
だって、かつては友人関係って今ほど大きな社会調査上のテーマじゃなかったし。対人関係への社会(学)的関心が高まったこと自体、社会学的に興味深いが、それは今は措いとこう(でも、発達心理学関係で過去にそうした調査がなかったか、今度調べてみねば)。
次善の策として私が採ったのは、友だちの有無や数と、「あなたにとって“友だち”とはどういう人か」という定義の連関を分析してみることだった。単時点の学生調査という限界はあるが、分析結果は、友だちの有無や数によって、友だちの定義に関する諸設問の回答にさして差はない(差があるものもあったが、友だちがいる/多いほど、いわゆる「希薄」でない関係志向が強い傾向にある)というものだった。
つまり、薄ーい関係の相手も「友だち」にカウントする→「友だち」の数が多い(≒増える)というわけではないようなのだ。
このデータは「友だちの定義が変わった」仮説と整合的でない。


こういう「見切り」ポイント(まだもういくつかある)を、座談会で話していたら、もう2〜3ページ分は余裕で紙幅をとってしまう。話したとしても、間違いなく編集サイドでカットされる。今回掲載されたのだって、かなりカットされてますし(でも、よたりがちな私の発言をここまでまとめてくれた編集者さんの力量には感謝してます)。
ま、一般誌に掲載される座談会や論文で言えることの限界ってことで。
正直スマンカッタってば(笑)


言い訳はともかく。
ある社会調査データを解釈する(「見切る」)うえで大きなポイントとなるのは、それを他の調査データ(のみならず、さまざまな社会現象や事例など、もろもろの「証拠」)とつきあわせて、総体として、いかに整合的な(coherent)説明がつくか、だ。
そう、「真理の整合説」ってやつだ。
調査データを、数字をうたがってかかるのはいい。
それを批判・反駁するのに、数字になりえないような自分の個人的「実感」や「事例」をもちだしてもかまわない。
その「実感」「事例」と諸々の「データ」の別様の解釈(批判的解釈)とをつきあわせたほうが、総体として、より整合的なすっきりした説明がつくのであれば。
しかし、「データ」や「数字」を単体としてとりだして、オレの「実感」とは違うとか、具体的な「事例」を省みない机上の抽象論とか、これこれの「実感」や「事例」にはあてはまらない(そりゃそうだって、社会調査のデータは全体をおおまかにとらえるためのものであって、個々の事例を説明しきるものではないんだから)とか言っても、批判・反駁にはならない。
でも、学生さんでも割にいるんだな、こういうの。「先生の言うことはそうかなと思いますが、私の実感には合わない、私のまわりは違う」とかね。
「実感」はしばしば錯覚にすぎない(この点についてはまた後日)ということも教えてるんですけどね。
人は確かに「実感」からしか「理解」へと踏み出せないところがある。しかし「実感」にも批判的解釈をむけることが必要なのだ。
実感に彩られた自説を「ベタ」に信奉するのでなく、批判と批判をつきあわせて、総体として最も整合的な(論理学でいう弱い整合性でよい)解釈を、あくまで暫定的な自分の立場とすること。
真理、特に社会(学)的真理など、ある意味で到達しえぬ無限遠点にすぎない(しかしだからといって真理への「接近」をあきらめる必要はない)のだから、新たな「データ」「事例」「実感」があらわれるたびに、“ノイラートの船”流に作り替えていけばいいのだ、沈没だけは避けられるように。
自分の色眼鏡で見えるものだけを見ていれば、オレの船は不沈艦と錯覚できるかもしれないが、そのうち座礁して沈没するかもよ。


断っておくけれど、以上は別に、冒頭に引いた「一刀両断」氏への反論のつもりではない。まあ、件の鼎談のなかでも、旧総務庁調査のデータ以外にもいくつか調査データを紹介して、それらの整合的な解釈を示し、その後の発言では私なりの「実感」も交えて語っているのに、どうしてこの1つのデータ紹介の部分だけを取り上げて「一刀両断」するのか、ようわからんという思いはあるけれど。
ちなみに。
余談ながら付け加えておくと、「一刀両断」氏のサイトをのぞいて、思わず微苦笑してしまったのは、著書の案内文に書かれた

……「なぜそうなってしまったのか」原因を知るために脳科学の分野にも取材を行い、……

という一文。脳科学って、やっぱり近ごろ流行りの「錦の御旗」なのね...