「便所飯」報道についてのパブリックステートメント

朝日新聞夕刊(東京では7月6日版、大阪では7月7日版)で、「便所飯」に関する記事が掲載されました。
そこにコメントを寄せたこともあってか、辻のところへテレビ各局を中心に取材申し込みが相次いでありました。
ですが、考えるところあって、今後一切の取材はお断りいたします。
約一年前、同じく朝日の夕刊に「便所飯」についてふれた原稿を寄せたこともあり(そちらはコメントではなく寄稿記事です)、責任の一端は強く感じています。
取材を断るよりも、マスコミを通じてきちっと自らの考えるところを伝えていくという責任の果たし方もあろうかとは思いますが、そのようにしない理由を明らかにしておきます。
以下、あるところの取材をお断りした際のメールからの引用です(個人名や局が特定できる箇所は××に変更してあります)。

さて、結論から申し上げますと、お申し出の取材に関してはお断りしたく存じます。
最も大きな理由は、今回の発端となった張り紙がまず間違いなく愉快犯的なものであろうこと、その思惑にのって、これ以上、いたずらにおもしろおかしく騒動を広げたくないということです。
私自身は、かなり数は少ないものの、実際に「便所飯」をする学生はいると考えています。
それを揶揄し、嗤おうとするのが、今回の張り紙の意図です。
マスコミを通じてまで、そのような揶揄と嗤いにさらされる位置に追い込まれてしまった人たちのことを、私としては第一に考えたい。
そのような位置に追い込んでしまった責任の一端を感じる者として、私としてはマスコミ報道が早く終息してくれることを願っています。
むろん、自らの考えるところをむしろ積極的にマスコミを通じて発信していくという責任の果たし方もあろうかとは思います。
ただ、現状をみるに、それは「火に油を注ぐ」ことにしかなるまいというのが、私の判断です。


××さんの番組の報道姿勢や企画意図がどうのこうの、という問題では、必ずしもありません。
××さんの番組では、単に「おもしろおかしく」騒ぎ立てるのではなく、その背景にある社会的問題を真摯に問われようとしているのかもしれない。
しかし、制作者側の意図を離れて、テレビ(あるいは今のマスコミ)は、構造的に「おもしろおかしい」報道になってしまう、少なくともそのような部分だけが視聴者にくみ取られてしまう、そういう効果をもたざるをえなくなっていると思います。


私が一年前の夏の朝日に寄稿した記事で訴えたかったのは、決して「便所飯」の存在を世に知らせることではありません。
いくばくかなりとも伝えたかったのは、若者世代のあいだで、かつてよりも対人関係(友人関係)への敏感さが増していることであり、年長世代がそれを認識できずにいることによって、若者に対する不可解さが生じ、ある種のジェネレーションギャップが生じていることです。
また、「こうした人間関係への敏感な気遣いは、それ自体が悪いことであるわけではない」ことも記事中では述べています。
ただ、その敏感さが、ある種の負のループのなかで“過敏さ”にまで高められると、「便所飯」のような現象が生じる。
そのような現象を考えるにあたっては、時代・世代の変化として、対人関係へのセンシティビティが上昇してきたというコンテクストを認識しないと、訳のわからない「変なヤツら」としか目に映らなくなってしまう。
逆に言えば、「便所飯」を、このコンテクストから切り離して、それだけで流通させてしまうと、むしろギャップ・断絶を強調することにしかならない。
そして、それが実際に生じつつあるのが現状だと思います。


だから一年前の朝日の記事でも、「便所飯」を取り上げること自体どうしようか、些か躊躇しつつも、主張の本体部分まで読者を引き込むために、本文の冒頭に置きました。
しかし、見出しに立てることは避けました。
先日の朝日夕刊(東京版では7/6)では、見出しに大々的に「便所飯」が立ってしまいましたが、このような取り上げ方は、私はのぞましいこととは思いません(そもそもコメント部分以外はどのような記事になるのか事前に知りませんでしたが)。
それでも一年前に寄稿した責任上、最低限のことだけでもと思って、コメントを寄せました。
そのコメント部分にしても、小見出しでは「私もやった」「友達にいる」という便所飯の実在を強調するための箇所が取り出されてしまっています。
それを(変な言い方ですが)手放しで批判するつもりも、私にはありません。
私がデスクや記者であったとすれば、おそらく同じ箇所を小見出しに抜き出すことになるでしょう。
それが“仕事”ということであり、“職業人”であるということであり、翻っては現今のマスコミのもつ“構造的な”問題ということです。


繰り返しますが、御社の報道姿勢や××さんの番組の企画意図を云々したいわけではありません。
かつて数年ばかりですが広告代理店に勤めていたこともあって、テレビ業界など「おもしろおかしさ」を狙うだけの、でたらめなギョーカイ人ばかりというような、2ちゃんねら的な素朴な見方はもっておりませんし、志をもち、かつ“仕事”との折り合いをつけながら日々格闘してらっしゃるテレビ人がおられることも知っているつもりです。
御社が××のような番組を続けておられることには、大きな敬意を払ってもいます。


しかしたとえ、どのような取り上げ方をしても、現状では、たとえば「××がやってウケた」という形での「おもしろおかしい」連鎖反応が他局で続くでしょう。
昨日も、たまたま仕事の合間の時間に、ある局から電話がかかってきたので取材に応じて、一通りのコメントをしたうえで、「便所飯は大学生のあいだで一般的であるわけではなく、かなり限られたものであること、むしろその背景にある、より一般的な対人関係への敏感さの上昇を認識することが重要であること、必ずしもそれは悪いばかりのことではないこと」を、きちんと説明してほしい、と求めました。
が、結局のところ、コメントは使われることなく、そうした説明もほぼなされず、“ばかばかしい”“変な”という印象が強調されるだけに終わっていました。
コメントが使われなかった理由は私にもわかります。
その番組の流れのなかでは挿入しにくいものでしたし、プロの“仕事”として十分に理解できるものです。
そして、そのことと、テレビ(あるいはマスコミ)のかかえる“構造的な”問題は、裏腹をなすものです。


あるいは、ここまで長々と書いてきたことを、そのまま番組中で「識者コメント」として読み上げることができるか、という問題だと言い換えてもいいかもしれません。
“報道”として(あるいは“ジャーナリズム”として)は、そのような「識者コメント」があってもいいはずですが、“テレビ”として(あるいは“マスコミ”として)は、そんな「識者コメント」はありえないでしょう。


私の言う“構造的な”問題とはそのようなものだとお考えいただければ。
長文失礼いたしました。
悪しからずご了解ください。

一年前に書いたこと

上のエントリでふれた約一年前の記事(朝日新聞夕刊、大阪版では2008年8月2日、東京版では8月30日掲載)で、私が「便所飯」がどうこうよりも、「いくばくかなりとも伝えたかった」ことに該当する部分を抜粋して掲載しておきます。

 こうした人間関係への敏感な気遣いは、それ自体が悪いことであるわけではない。「友達がいないように見られるのは耐えられない」者は、募金やボランティア活動への参加に積極的であることも付記しておきたい*1。これもまた、他者への気遣いの現れのひとつだろう。問題は、その敏感さゆえに、過度なまでの友達プレッシャーがはたらきかねないことにある。
 なぜこのようなプレッシャーが強くはたらくようになったのか。人目を気にすること自体は、以前から日本社会の特徴とされてきたことだ。例えば高度経済成長期には「人並みに車くらい持っていないと恥ずかしい」というように、物質的な面において人目が意識されてきた。しかし物質的な豊かさが達成されると、生活の満足度や幸福感はより身近な人間関係に左右されるようになる。意識の向かう先が人間関係にシフトするのだ。
 その意識は、特に高校までの間は、学級(クラス)を中心とした同輩集団の中に閉ざされ、苛烈な友達プレッシャーと化す。限られた関係の中で友達を作らねばならず、それに失敗した者は、孤独だけでなく、友達のいない変な人という烙印の視線にも、耐え続けなければならない。二重の意味で疎外されるのである。その視線から逃れる場所は、それこそトイレの個室くらいしか残されていない。
 今、必要なのは、学級制の見直しを含めて、子どもたち若者たちが、同輩集団以外の多様な関係を取り結べる環境を整えていくことではないか。友達などいなくとも、人に認められ必要とされる関係はいくらでもある。その相手はひとり暮らしのお年寄りかもしれないし、長期入院の子どもかもしれない。社会は広い。そこにはトイレの個室に代わる居場所が、誰にとっても必ずあるはずだ。

*1:この点は、20〜44歳の一般サンプルを対象とした計量調査の分析結果をもとに言っています(便所飯をしたことがある人にインタビューしたとか、そういうことではなく、より一般的な傾向性の話)。