『検証・若者の変貌』

検証・若者の変貌―失われた10年の後に

検証・若者の変貌―失われた10年の後に

第一章 若者論の失われた十年……浅野 智彦
第二章 若者の音楽生活の現在……南田 勝也
第三章 メディアと若者の今日的つきあい方……二方 龍紀
第四章 若者の友人関係はどうなっているのか……福重 清
第五章 若者のアイデンティティはどう変わったか……岩田 考
第六章 若者の道徳意識は衰退したのか……浜島 幸司
第七章 若者の現在……浅野 智彦

いただきものです。
浅野さんはじめ、著者のみなさまがた、ご恵投ありがとうございました。
いただいておいて何ですが、執筆・編集方針がちょっとうまくいっていないように思います。
各章とも、若者(まわりの社会現象)に関する俗説を批判的に検証するというのが基本方針になっていますが、一方で、青少年研の調査データの分析結果を主軸にしなくてはならないという制約があり、これらが今ひとつうまくかみ合っていないように思えます。
浅野さんの章はさすがに安心して読めましたが、3章・4章・6章は上記のようなかみ合いの悪さを比較的強く感じました。


たとえば3章では、冒頭で問題提示として、メディアの悪影響説が取りあげられます。
ゲームの悪影響(「ゲーム脳」論含む)にせよ、ケータイのそれにせよ、先行研究はすでにけっこうな数に上ります。
この問題に素直に取り組むなら、それら先行研究および実証データをまずは用いるべきでしょう。
しかし、青少年研の調査データ分析を主軸にするという制約上、それらに丁寧にふれている余裕がありません。
また、青少年研の調査は悪影響説の検証を直接の目的としたものではないため、「メディアの利用状況をその相互の関係と利用者の属性との関係で検討」することに、論旨がズレざるをえません。
また、このメディアの利用状況に関する研究も、やはりそれなりの実証的調査がこれまでに行われていますが、リファー・紹介はほとんどされていません。
むろん、青少年研の調査で明らかになった知見自体は興味深いものもあるのですが、章全体としては上記のような二枚看板の板挟みになっているので、一枚ずつみると物足りなく、二枚の看板ももうひとつうまく接合しきれていない。
論文の完成度としては、どちらか一枚に絞ったほうが高くなったのではないかと思います。


4章・6章に関しても同様の問題を感じましたが、さらにこれらの章で苦しいのは、友人関係の希薄化(または選択的関係化)、道徳・規範意識の衰退、という経年変化にかかわる問題設定がなされていることです。
経年変化を論じる場合、単年度データでは基本的にきちんと検証できません。
しかし、両章で専らに用いられているのは、2002年調査の単年度データです。
たとえば、6章では

「〜べきである」と問われた質問に若者は「賛成」している。みんなが並んでいる列への割り込みはすべきではない」、「約束の時間が守るべきである」、「ごみのポイ捨てはすべきではない」と、一般社会で常識・マナーといわれる項目への賛同は高い。「賛成」の割合をみれば、「ボランティア活動には参加すべきである」が最も低いが、それでも七四・五%である。四人中三人は「賛成」しているのだ。

(pp.206-7)

という調査結果から、「この全体結果をみると、「若者の道徳・規範意識が低下している」というのはウソだといえる」と結論づけられますが、単年度の数値の高さからこの結論を導きだすことには難があります。
かつてはさらに高い数値であったとしたら、やはり「低下」していることになりますから。
百歩譲っても、若者層とそれ以上の年齢層との比較は必要でしょう。
悪く言えば、若者バッシングをバッシングせんがための調査データの利用にも思えます(だとしたら、若者バッシング論がおこなっている調査データの「情報戦」的活用と変わるところがないでしょう)。
4章では、確かに一部、1992年調査との比較はなされていますが、たとえばp.125の友人数の経年変化くらいであれば、他に調査データもあります。
この点については青少年研調査ならではの知見に乏しいと言わざるをえません。


繰り返しますが、青少年研の調査データについて、なされている分析・得られた知見自体は興味深いものが多々あります。
ただ、二枚看板を立てたせいで、各章の論文としての完成度が落ちているような気がしたので、そこがいかにも惜しい。


2章に関しては、素朴な疑問を感じました。
この章の最後のほうでは、次のように結論づけられています。

現在、音楽の価値は平準化し、威信効果を個々の音楽作品をもつことはないようにもみえる。しかし、私たちは音楽への関わりの強さ/弱さによって、選好する音楽に差異がみられることを確認してきた。若者は、ただ音楽をカタログ的に平準化されたものとして聴いているのではない。

(p.68)

それまでのデータの分析を読んできた流れからすると、この結論自体はさほど無理なく肯くことができました。
ただ、俗説的に「平準化」と言われる場合、こうした「音楽への関わりの強さ/弱さによって、選好する音楽に差異がみられること」とは少し違った側面への関説もないでしょうか。
かつても今も、音楽好きかどうかで好きな音楽ジャンルが異なることには変わりないかもしれません。
しかし、その差異が序列化されるかどうかに、「平準化」という論点は関わっているように思います。
かつて音楽強者(?)が「けっ、ユーミンなんかが好きなの?!」という意識で見下し、逆に音楽弱者は何かしらの劣等感をもっていたとする。
しかし今は、音楽強者は「へー、モーニング娘が好きなんだ」と淡々としており、音楽弱者もまた「○○が好きなの、ふーん、あたし知らない」でおしまい、だとする。
互いの音楽選好をリスペクトしつつも無関心という感じですかね。
仮にこういう変化があったとすると、「平準化」と言ってよさそうな気がするんですが、この点については、本稿の論旨からすると、どういうことになるんでしょう?


5章については、分析・解釈の手堅さは感じるものの、自己の類型化(モデル化)が細かくて、逆に危うさを感じました。
私自身は、調査からは実のところ、基本的にはかなりざくっとしたことしかわからないと思っています。
細密なモデルでデータを分析・解釈していくと、ざくっとしたところとの懸隔・ブレも大きくなります。
もちろん、細密なモデルや類型を用いること自体が悪いということではありません(私もけっこうやりますし)。
ただ、気をつけなくてはいけないのは、つねに「ざくっとしたところ」を(文中には出さなくとも)きっちり押さえておき、どこいら辺までのことなら言えそうかを値踏みすること。
その匙加減こそが難しいわけですが、今後このまま細かいところへ突っ走ってしまうと、ちょっと危ういなあと感じるところもありました。
まあ、余計な老婆心ではありますが。

世論調査ピンチ!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060214-00000105-yom-soci
いや、ほんと、調査屋にとっては切実にピンチなのですよ。
しかし、「7割は回収できないと、正確とは言い難い」というコメントにはまいった。
私のたずさわった調査で7割も回収できたのなんて、あったかなぁ......