祭りとしての野球応援

先週の卒論ゼミで、野球の応援に関する報告があった。
高橋豪仁さんの「広島市民球場におけるプロ野球の集合応援に関する研究」*1を引いていて、この論文自体は前にやはり卒論でちらっと取り上げた学生がいたので、覚えていた。内容は、広島カープの応援団の太鼓やメガホンのリズムが、日本の伝統的な農耕儀礼で用いられる「びんざさら」のリズムと同じだ、というもの。
文字ではうまく表記できないが、タン、タン、タタタという、聞いてみればなるほどお馴染みのリズムである。
で、阪神の応援歌を、6月21日22日の対中日戦で、1番赤星から9番井川(安藤)まで、実際に調べてみると、やはりすべて「びんざさら」のリズムだったという。
これを応援の加熱をさます「鎮めの文化装置」として解釈できないかという趣旨だったので、さすがにそれは強引じゃないの、農耕儀礼の鎮めはそもそも神を鎮めるもので、儀礼(祭り)の参与者を鎮めるものじゃないし(実際にトランス状態にまで昂ぶることもありがちだし)とコメント。
むしろ、現代社会では野球観戦が、農耕社会における祭りと同じ役割を果たしているのではないか、くらいの無難な線にまとめたほうがいいんじゃないでしょか、とアドバイス
サッカー(Jリーグ)やその他のスポーツの応援で、びんざさらのリズムって、あまり聞かないような気もするし、その比較で考えてみると、現代日本の野球観戦・応援の特殊性が何か浮かびあがってくるかもよ、と。


で、先ほどゼミのメーリングリストで流れてきた他の学生からのコメントに「ビール飲んで、うちわ片手にっていうところとか、なんとなくお祭り的な要素はあるかもしれませんね。法被着ちゃうし。」とあった。
あ、そうだね、なるほどね、法被までは気づかなかったよ。
祭りとしての野球観戦・応援という切り口自体はあと一つのところもあるが(卒論レベルでは十分だけどね)、この切り口で徹底的に丁寧に分析してみると、けっこうおもしろいものが見えてくるかもしれない。
期待。

*1: 『スポーツ社会学研究』2巻、1994年