私の(あくまで個人的な)卒論評価基準

ひとの卒論(作業)にイチャモンつけるばかりでも何なので、私自身の学生時代の卒論(作業)がどういうものだったか、教員としての卒論評価の基準はいかなるものか、を少し書いておくことにしたい。


私は学部時代は心理学専攻で、卒論は、認知心理学の一研究領域たる、概念(カテゴリー)形成について、実験心理学的な手法で取り組んだ。
概念形成については、主だったモデルと先行実証研究がはっきりしており(概説書・入門書を読めば、共通して取り上げてあるものはすぐわかる)、そのひとつに発展的検討を加えることを試みた。
自分が発展させようとしているモデルについては、原著の英語論文を読んだが、それ以外はさほど先行研究に網羅的に目を通したわけではない。
仮に、自分のやろうとしていることが既にやられていたり、問題含みであったとしたら、それは指導教員(や専門分野の近い院生*1)が指摘してくれるはずなので、学部の卒論レベルの場合、先行研究レビューの網羅性はさほど重要でない、と今でも考えている。
学部の卒論の場合、むしろ力を傾注すべきは、自分の力量と時間的制約に照らし合わせつつ、先行研究の「穴」――ごく小さなことでいいので、これまでにはわかっていないこと――を見つけることである。
ここは執筆者のセンスによるところが大きいが、とにかく手足を一生懸命動かしてみることによっても見つかることが多い(特に社会学の場合:後述)。


私の場合、その「穴」とは、ごく粗っぽく言ってしまうと、概念どうしの「差異」(に関する情報抽出)というものだった。
私が対象とした先行研究は、Reedという学者(だったと思う)の顔図形を使った概念形成実験である。
実験に用いる顔図形は、いくつかのパラメータから成り、たとえば、目と目、口と鼻、目と鼻の開き具合(間隔)などが変化する。
それらの顔図形を20個ほど設定し、一定の数量的基準によって、2つに分け、たとえば、それぞれの開き具合が一定値以上のものを「A」、以下のものを「B」とする。
印象・感覚的な表現になおして言えば、「A」に分類される顔たちの(ある種の)平均像をとると、中心部にギュッと寄ったような感じになり、「B」に分類される顔たちは、ボヤッと外側に拡散したような感じになる。
で、「A」と「B」の顔図形10個ずつを、それぞれランダムに呈示し、被験者に「A」か「B」か判定をさせて、正解・不正解をフィードバックして、正答率が一定値(たとえば90%)以上になるまで、学習させる。
学習が完了したとき、被験者には、「A」と「B」に関する何かしらの分類基準、つまり、「A」「B」それぞれの概念・カテゴリーの基準が形成されていると考えられよう。
その基準がどのようなものかを、学習過程では呈示していない新しい顔図形を「A」か「B」か、分類させて、探りだすと、Reedの研究では、「A」「B」それぞれのパラメータのある種の平均値――プロトタイプという――が形成されており、新しく呈示された顔図形がそのどちらに近いか(という基準)で、分類されることがわかった。


このことは、私がおこなった実験(追試)でも確認された。
そのうえで、私が仮説としたのは、単に「A」はどういう顔か、「B」はどういう顔か、というプロトタイプが形成されるだけでなく、「A」と「B」がどのように違うか、という異なりかた――差異――の基準(情報)もまた、抽出・形成されているのではないか、ということだった。
ほら、当時はニューアカブーム冷めやらぬ頃で、「差異」がキーワードだったもんで(安直)。
で、うまいこと実験をデザインして、差異情報が抽出されていることを実証してみせたんですな(自慢)。
完全に自画自賛になるが――でもって半ば恥の告白になるが――この卒論は自分のなかで今だに最もよくできた論文だと思っている。
もちろん、学術研究論文としての完成度からいえば、アラが目立つし、今ならもっとよく書けると思う。
しかし、アイデアという点では、学会誌に載っている論文に比べても、決して劣るものではないと自負しているし、卒論作成の過程でその知的醍醐味を知ったことが、その後、私が学者の世界に出戻る大きなひとつの要因になっている。
極言するなら、私は、卒論を書かなければ、大学でほとんど何も学ばなかったに等しい(講義なんぞサボリたおすダメ学生だったんで)。
だからこそ、こと卒論に関しては、小うるさいのである。


なので、私は教員として卒論を評価するにあたっても、先行研究の網羅性とか、学術研究論文としての完成度には、実はさほど重きを置かない。
私の現在の勤め先の場合、圧倒的割合の学生さんたちは、研究者になるわけでもなく、その後の仕事などで研究能力がダイレクトに活かされるわけでもないし。
卒論評価にあたって重視するのは、オリジナルなアイデア(着眼点)が、いかにわずかなりとも含まれているかどうか、だ。
オリジナリティ、とか、個性、とかいう言葉は、就活でもさんざん繰り返し説かれるところだろうし、その内実の曖昧さがむしろ大きな問題をはらむことは重々承知のうえで、それでもやはり、こうした言葉を使わざるをえないところに、私の能力の限界を感じるところはある。
オリジナルであること、個性的であることに、無前提に価値を置くわけでもない。
ただ、私のいう「オリジナル」とは、何かしら原石のように個人のうちに埋まっているものではないし、実体のあるものでもない。
いわば、何かしらのズレのようなもの、これまでに言われてきたこと、考えられてきたこと(ここに先行研究も含まれる)とのズレ、他者とのズレのようなものだ。
ひとはどうやったって他者とのズレをはらむ。
それは、言語(をあやつる存在)にとって必然でもある。
しかし、そのズレに注意深くあることは、きわめて難しい。
世に言う「オリジナリティ」「個性」なるものなど、他者との違い――差異――が固定されたものにすぎない。
そこにズレていくダイナミクスはない。
むしろ固定された差異の体系こそが大事にされる。
それとは違った価値観があること。
そうした価値観が通用する世界がわずかなりとも残されていること。
そのことを、きわめてぼんやりとであれ、ごくごくわずかであれ、感じ取ってもらえれば。
実のところ、私の卒論指導の目的は、ほとんどそれに尽きる。
学術的にであれ、ビジネス的にであれ、何かしらの能力・スキルを身につけてもらわなくてもよい。
大学が専門学校的なるもの(=いかなるものであれ「能力」「スキル」の養成を目的とする世界)に傾斜していくご時世にあって、はなから負け戦なのはわかってはいるが。


ちょっと話が大仰になってしまいましたが、ズレがうんぬんとかいうことを卒論指導から感じ取ってもらえなくても別にいいんですよ、半ば以上あきらめてますから(だから負け戦)。
ぶっちゃけたところで言うと、要は、読んでて少しでもおもしろいものを書いてくれ、ってことで(いきなりトーンダウン)。
着眼点・切り口さえおもしろければ、論文としての完成度は低くても、おもしろく読める。
それには、キーワード2個でテーマを考えてみる、ってやりかたがあります(ちなみにこれは同僚の片桐新自教授からの受け売り)。
キーワード2つの、1つは研究対象で、1つは切り口。
私のゼミの過去の卒論から、おもしろかったテーマを例に引くと。


・贈り物としてのケータイメール
メールが研究対象で、贈り物が切り口。贈り物は、中身(何を贈るか)以上に、贈るという行為じたいに重要性がある。メールも同じで、中身(メッセージ)自体は他愛なくても、送る・返すという行為が重要。その点でいくと、絵記号・顔文字というのは、贈り物のラッピングのようなものではないか。贈り物に関する先行研究によれば、これこれの属性の人が贈り物をよくすることがわかっており、メールで絵記号・顔文字をよく使う人の属性もそれと一致する。ということを明らかにした卒論。
あくまで属性が一致するという間接的証拠しかあげられなかったので、実証としてはもひとつ不十分なところはありますが(その後、私自身が学生調査をやってみたところ、贈り物志向とメール利用頻度はやはり相関しました)、メール=贈り物という切り口にハッとさせられました。言われてみれば、コロンブスの卵かもしれませんが、こういう視点(切り口)が出てくると、そこから研究の発想が広がってくるところがある。私も今後の研究のなかで使わせてもらおうと思ってます。(もちろん引用先はきっちり明示しますし、その意味で卒論であっても学術研究の系譜のなかに参加していくことは十分可能なのですよ。)


・物語消費マニュアルとしての『コロコロコミック
大塚英志の物語消費論では、消費者が「ビックリマンチョコ」のシールに記された情報の断片から物語を作りあげていく、という、いわゆる能動的(主体的)な受け手像・消費者像が示されていたが、当時、「ビックリマンチョコ」の消費者=子どもたちは、一から自分たちで物語を構築・編集していたというよりも、『コロコロコミック』がそのマニュアルとして機能していた可能性を示唆した卒論。
これも実証のツメはまだまだ甘いですが、そこをきっちりやっていくと、物語消費論への重要な批判になる可能性が感じられました。


いずれの論文も、初めから、キーワードが2つ立っていたわけではなく、作業を進めていくうちに、切り口のほうのキーワードがはっきりしてきたパターンです。
「メールは贈り物である」「コロコロは物語消費マニュアルである」というふうに、“○○は××である”と表現したときに、○○と××が、ほどよく意外な、つかずはなれずの距離感にあるのが、いいテーマですね。


テーマ設定でうまく2つキーワードが立たなくても、先行研究のなかからちょっとした「穴」を見つけて、とにかく手足を動かして、そこに突っこんでみるのも大事。
たとえば、マンガ読書に関する男女差について取り組んだ卒論があります。
アンケート調査などで、作家重視で読むか/作品重視で読むか、等々に関する男女差を明らかにした先行研究はあるものの、より具体的にどういうふうにストーリーを読んでいくかを明らかにしたものはなかった。そこで、同じマンガを男性・女性に読ませて、後でそのストーリーを書かせて再現させる実験をおこなったところ、男性はどんなできごとが起こったかを書いていくのに対し、女性は登場人物の心情により焦点をあててストーリーを再現する傾向がかなりはっきりみられた。
実験のサンプル数は少ないし、実験手続きにも厳密さが欠けるところはあったのですが、この部分をきっちりやったら(そして同じ結果が出たら)、マンガ研究・メディア研究でけっこう参照されるような論文になりうるのでは、と思います。
マンガをテーマに書かれた卒論でいえば、少女マンガによくある花が飛び散ってる背景をとにかく手間ひまかけてカウントしていき、かつてのように「ロマンチック」を表す用法はかなり減って、最近ではもっぱら「ギャグ」として用いられていることを明らかにしたものもあります。これも「へぇぇ、でもなるほど」と思いましたね。


これから卒論を書かれるみなさん、どうか、指導教員をおもしろがらせてやってください。

*1:院生にアドバイスをもらえる環境にある大学は、現状ではかなり限られてくるだろうから、一般に頼りになるのは、やはり指導教員ということになるだろう。その指導教員がダメダメだったら、どうしようもないのではあるが(笑)