宮台・北田『限界の思考』

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学


この2日ほど寝込んでおりました。
昨日は年内ラストの講義とゼミを急遽休講にしてしまい、申し訳ありませぬ >受講生&ゼミのみなさまがた
カゼというよりは疲れが溜まっていたせいのようです。
寝ていたおかげで、体はずいぶん軽くなりました。


布団の中でやっと読みました、『限界の思考』。
すごくいい本だ。
正しく宮台再入門させていただいた気がする。
宮台さんが問題にしていたのは、アイロニーやdistancingというコミュニケーションの様式ではなく、そうした(あるいはそうではない)コミュニケーション様式へのコミットメントの様式――強迫的な依存という――であった。
その差異に私はまったく気づいておりませなんだ。
この差異はきわめて大きい(と思う)、少なくとも「亜細亜主義」という処方箋が提出される理路を理解する上では(自信ないけど)。


distancingへと衆生を導くワンステップとして「亜細亜主義」(でも「戦後民主主義」でもいいのだが)をもちだされると、私には素朴に???というところがあった。
えっと、それってまずベタに(distancingなしに)亜細亜主義を信奉させるつうことですよね、そこからdistancingへはどう導くのでしょうか、少なくとも亜細亜主義を信奉させる戦略・手続きとは別の理路でということにならないんでしょうか、だったら戦後民主主義を信奉させるってことではダメなんでしょうか、よりよきものに“善導”するってことなら、少なくとも亜細亜主義戦後民主主義のどちらがよりよきものかというベタな議論・値踏みが必要ですよね、で、そういう議論が実際に大塚英志さんほかとのやりとりだったような気がするんですけど、でも宮台さんはベタに亜細亜主義をよりよきものと信奉しているわけでもないんですよね???
という具合。


しかし、これがコミュニケーション様式へのコミットメント様式に焦点のある話だとすれば、私には割とすとんと落ちてくる感じがあったのだ。
コミットメントの強迫性を解除するためであれば、ロマン主義的な欲望の虚焦点を充足する対象を備給してやれば「憑き物」が落ちるだろう、という話はよくわかる(すいません、えらい大雑把な言い方で)。
もちろん、ここでも戦後民主主義のほうがその対象として適切じゃない?という話はありうるが、いや、亜細亜主義のほうがよりロマンティックだぜというのが宮台さんの診断であり、その診断に説得性を感じるところもある。
「憑き物」が落ちてしまえば、ベタ(コミットメント様式の位相)にアイロニカル(コミュニケーション様式の位相)だったやつは、単にアイロニカルでありうるわけで*1、これなら処方箋として理屈が通っている(すんません、返す返すも大雑把で)。


なるほど。
と得心がいった次第。
しかし、ここで俄然自分自身の「コミュニケーション論」屋としての問題意識とリンクしてきたところがあり、そこからやはり「亜細亜主義」という処方箋への疑問が新たに1つ湧いたのでした。


ちょっと回り道して、宮台さんの発言の引用から始めてみたい。

「アイロニカルな没入」という概念は、こうした「相対化のオブセッション」を指す場合にだけ意味があります。大澤真幸流の、単にペダンティック(衒学的)なだけの無意味な物言いをはずしていえば、よいアイロニーと悪いアイロニーがあるのであって、評価のポイントは対象に距離を取れているかどうかではなく、オブセッシブかどうかだということです。
たしかに、いまどきの若い連中は、アイロニカルに見えるし、何かにつけて距離化し、相対化しています。でも、ズラす自分からズレることができない。「終わりなき再帰性」の渦巻きに巻き込まれてオブセッシブになっている。僕が「いまどきの若い連中」というとき、七七年以降生まれを基準にしています。いま二六歳前後の若者を境目にしているんですね。

(p.365)


コミュニケーション様式へのコミットメント様式という点からいえば、「ズラす自分からズレる」ための若者ことばとしては、1970年代末に流行語となった「な〜んちゃって」をその一例としていいだろう。
「文化の政治性なんて言挙げしたところで何の役に立つんだよ」と青臭い発言をした自分が気恥ずかしくなったところで、「な〜んちゃって」と付け加える。
ある種の自己引用の作法ですな。
『限界の思考』にも引かれていた用語でいえば、これは仮人称発話の一種で*2、「何の役に立つんだよ」と発話した人称に対して、「な〜んちゃって」と否定的に言及(mention)する。
この否定的言及によって、発話人称と発話主体の距離化(distancing)が生じる。
また、その言及の様式(コミットメントの様式)の否定性が、「自分からズレる」ことへのバネとなりうる(詳述は略)。


一方で、1990年前後から目立ってきた若者ことば――たとえば「てゆうか」――には、distancingの機能はあっても、自己引用先への否定的コミットメントを表示する機能はない。
「何の役に立つんだよ、てゆうか、無意味だよね」という具合に、単に言い換えとして、発言の括弧入れ(distancing)を表示するだけ。
だから、「てゆうか」の後の言い換え部分(「無意味だよね」)などは省略されていく。
「て感じ」「みたいな」なども機能的には同じ。
また、「てゆうか」の場合は、当初自分の発言の文末に用いられていたのが、文頭で相手の発話を受けて、相手の発話を括弧入れするために用いられるようになっていく。
これらには、発話人称と発話主体の距離化だけがあって、括弧入れされた発話への否定的反照をバネにした「自分からズレる」ことへの動力ははたらかない。


ここまでは、いいのですよ。
私が疑問に思うのは、このような「てゆうか」的なdistancingの話法へのコミットメントが「強迫的」であるかどうか、という点。
確かに、「な〜んちゃって」は人口に膾炙するにつれて、距離化を表示するための強迫的話法となっていった印象が私にもある(当時、私は中高生時分ですが)。
しかし、「てゆうか」的な話法に、強迫的、オブセッシブとまで言えるほどのものは、あくまで印象論にすぎませんが、あまり感じられないのです。
むしろ印象としては、嗜癖、中毒――addiction――に近い。
こうした言葉遣いは「病みつき」にはなるけど、「取り憑かれる」という感じではないんですよね。
喫煙が習慣化すると、タバコを吸わないとイライラする、吸っていると落ち着く、という感じに近い。
私も喫煙者ですが、確かにニコチン中毒段階になると禁煙は難しいけども、タバコが「強迫」観念として立ち現れてくるかというと、それは少し違うでしょう。
そういう重度中毒者も確かにいますけども。


とりあえず、強迫(観念)/中毒という(精神)医学的なアナロジーでそのまま突っ走っちゃいますと、これらを治療するための処方箋は明らかに違ってくるはず。
外から帰ったら手を50回洗わないと落ち着かないというオブセッションの場合なら、その症状へと換喩された元の欲望(全体性への欲望)をある程度満たしてやれば、症状は緩解するだろうと期待できる。
つまり、「何らかの欠落体験や欠落発見があり、それを埋め合わせるために、再帰的に「教養」や「美」や「親密さ」が定立される(p.245)」ということの一環としての「亜細亜主義」が機能しうるだろう、と。
しかし、ニコチン中毒の場合、こうした「人間(学)」的な処方が有効とは思えない。
ニコチンパッチのような、生理学的/アーキテクチャ的に作用する――より「動物」的な――処方のほうが適切だろう、と考えられる。


実は、宮台さんもこのことに――この「絶望」に――気づいているのではないか。
だからこそ、三章で唐突に(思えるけれども実はまったく唐突でない)次のような問いが投げかけられるのではないか。

第一に、僕たちが人間であり続けることは、必要なことなのか。第二に、人間であり続けるということは、どうあり続けることなのか。第三に、僕たちが人間であり続けるためには、何が必要なのか。

(p.244)


私たちの社会における再帰性の高まりは、人間が人間であることの自明性をも崩し、人間であり続けるのか/続けないのかという選択をいよいよ浮上させつつある。
しかるに/それゆえに、上のような問いが、問いとしてほとんど理解されないということに対する苛立ちと虚しさ。
北田暁大さんに――彼を存在させてくれた〈世界〉に――感謝したい」というあとがきは、それゆえに感動的だ。
ウィトゲンシュタインの非哲学と同じようなかたちで*3、非社会学なるものがありうるとすれば、この一冊こそがまさしくそれだろう。

*1: ベタにベタだったやつは、単なる厨だから逝ってよし、と。

*2: 実際、橋元先生も『背理のコミュニケーション』のなかで「な〜んちゃって」を仮人称発話の一つとして例示されていた記憶がある。

*3: 永井均さんだったかが『反哲学的断章』について「非哲学」のほうが適切だろうと言っていたと思うので、それにならう。