レポート採点バトン

先々週末ロンドンへ行き、時差ボケが治ったとたんに、先週末帰ってきました。
また時差ボケです(挨拶)
この夏唯一のお休み期間であったので*1、断じて仕事はせず、ネットも使わず。
そういうわけで1週間ぶりにネットを見てまわったわけですが。


さて、件の問題について。
from charlie (http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=440)


正直、私自身はコピペレポートにさほど大きな――というと語弊があるかもしれないので、新しみのある――問題を感じない。
私も学部生のころは、ほとんど本を丸写ししてレポート出したこともある(遡ること20年前なので、時効ってことでひとつ何とか)。
澁澤龍彦(だったか?)のSonnenstern論を適当にアレンジして、美学系の単位をいただいたような。
あと、文学系のレポートで『ファウスト』をひとつの症状として現存在分析したやつ(こちらはオリジナル)を、ワープロでもう一つプリントアウトして、論題自由の哲学系のレポートとしても出したり。
筆記試験でもテキストの2ページを丸暗記して書けばOKという科目もあった。
なんせ同じ時間帯に教養科目と専門科目の二重登録が可能だったことで有名な大学だったもんですから、よく言えば「おおらか」だったんですな。


ただ、そんな私でも、完全コピペレポートには抵抗感がある。
それは端的に手間ひまのかかりぐあいの違いだろう。
手間ひまがかかるということは、ムダがあるということだ。
コピペにはムダがない。
私はとにかく(文系の)大学教育というのは人間に「ムダ(余白)」を――できることなら、いい「ムダ」を――つくるものだと思っているので、こういうムダのないやりかたには否定的だ。


結局のところ、完全コピペレポートに何ら罪悪感をもたない学生さんにも、この「ムダ」=悪いものという意識があるのだと思う。
あなたはこれこれの課題に応えよ、と言った。
わたしはそれに応えた。
しかも、ムダなく効率的に。
それで何の不都合が?


ここに不都合はない、のだと思う。
教員の側が不都合を感じるとすれば、まったくムダなく効率的に応えられるような課題を出した教員の側にこそ、やはり問題があるだろう。
かつては「論題自由」であっても、それに応えるには自然にムダな作業を伴わざるをえなかったかもしれない。
状況は変わった。
ならば、ムダな作業を伴わざるをえない課題を出すしかない。


状況の変化、というのは、何もネットやら情報技術やらが一般化したことだけを指すのではない。
ムダが忌み嫌われるようになり、そのことが教育的価値観のなかにも相当程度入り込んできたこともある。
大学生の私語やらメールやら授業崩壊やらが騒がれるが、それでも資格取得講座とかエクステンション・センターとかの講義をのぞいてみると、おおむね熱心に受講している。
実利のはっきりした「ムダ」のない教育であれば、やはり今なお成り立つのである。
裏を返せば、大学を卒業して何の役に立つのだかわからない講義科目は、端的に「ムダ」とみなされるようになったということだ。
役に立つのは大卒(あるいは○○大卒)の肩書きであって、ならば単位はできるだけ「ムダ」なく効率よく集めたほうがよい。
となるのは、理の当然ともいえるし、私もそうしたほうがよいと思う。


ただ、「ムダ」かどうかは事後的にしかわからない面もある。
就職後の仕事がすべてコピペで済めばよい。
そういう仕事を望むのなら、それでもよい。
別にそのこと自体が悪いわけではない。
しかし、ならば「おもしろい」仕事とか「自分にあった」仕事とかを望むのはやめようよ。
コピペで済む仕事ってのは「だれにでもできる」仕事なんだからさ。
とりあえず今さしあたり役に立つ能力ってのは、(一定の範囲内では)だれにでも共通する能力なわけで。
どういう「ムダ」をもっているかは、役に立つかどうかはわからないにせよ、個人個人に問われる(それもまたひとつの)能力であるはずだ。
その意味で、やはり大学教員が「ホントに教えないといけない」のは、charlieのいうとおり、「お前のテンプレートのクオリティ、社会に出たらこの辺の位置」ってことなのだ。


確かに大学は(高校も)今でも「ムダ」なことを教えすぎていると思う。
その点で、本田由紀さん(『若者と仕事』東京大学出版会)が教育の職業的レリヴァンスを説くのもよくわかる。
ただ、時代の趨勢として、徐々にであれ、高等教育が実際に「役に立つ」ことを学ぶ場へとむかうのはまちがいないと思う。
そのなかにどう「ムダ」を学ぶ余地を残しておくか。
その理屈をたてるのは本当にむずかしい。
「ムダ」の実利性を説く(上でやったように)しかないだろうから。
でも、実利的な「ムダ」って、端的に語義矛盾だから、「ムダ」じゃないんだよね。*2


私は自分の講義でレポート課題(ほぼ自由論述に近いもの)を出したのは去年1回しかないが、その動機は、何か「おもしろい」ものを書いてくる人がいるんじゃないかという期待でしかない。
去年はid:Albiniくんが受講生にいたので、そう期待したわけで(実際、その後の卒論よりおもしろかった)。
自由論述のレポートってのは、回答者がどういう「ムダ」をもっている人かがよくわかる。
逆にどれほど「ムダ」のない人かも(実際やはり何人かコピペレポートを出す「ムダ」のない人もいた)。
その「ムダ」が「おもしろい」わけだ。
ただ、「おもしろい」答案への期待は、年々失いつつある。
(大)講義の授業では、もはや自由論述では「おもしろい」答案は期待できないのが現状だ。
大学生の知的レベルが下がっている、というのとは、おそらくちょっと違う。
卒論では十分におもしろいものが出てくるから。
かなり教員側が手間ひまをかけないと、「おもしろい」「ムダ」の出てくる態勢(スタンス)にもっていけなくなっているということなのだろうと思う。
デフォルトの態勢が、ムダなくソツなく、だから。
こういう態勢がどういうふうに(個体発生・系統発生的に)形成されていったのかは、(教育)社会学的に興味深いけど。


Q1.先生がレポートを採点するときにもっとも重視するのはどこですか。
「問い」「答え」「論証」という型をきちんとふまえて展開できているか、に80点。あと20点は、紋切り型に完全に落ちないでいるか。


Q2.レポート執筆に際して、何か特別な指導をしていますか。
ゼミや少人数クラスではします。論文(レポート)は「問い」「答え」「論証」の3要素から構成されること、パラグラフ単位で意味のまとまりを考えて書くこと、自分のことばと他人のことば(要するに引用)を必ず区別できるように書くこと。


Q3.学生のレポートにコピペを見つけたらどのように対処していますか。
原則0点。


Q4.この問題について何か一言。
昨年、レポート課題を出したときは、無邪気に「コピペで何がわるいの?」と考える学生さんも存在しうることをうっかり想定し忘れていました。私はこういう学生さんを単なるバカと考えるだけですませたくないので――しかしバカにはちがいないので、先に書いたようにコピペは0点にしますが――、コピペは0点にすることとその理由をあらかじめアナウンスすることにしました。というか、無邪気に「コピペで何がわるいの?」と考える学生さんが現れたことが、(教育)社会学的におもしろいネタに思えるので、いつかレポート課題に出そうかと。

*1: 「おまえの holiday は1週間しかないのか」「ああそうだ、しかしたいていの日本人はそうだ」「そいつは Japanese mad rule だな」と言われましたとも

*2: ただ授業としては「実利」と「ムダ」って排反的要素じゃないんだよね。大学合格という「実利」を最優先する予備校の授業のおかげで○○学のおもしろさに目覚めたっていう人がいるように。「実利」を追求しながら「ムダ」を手放さない教育ってのは十分可能だと思うし、ひとまず私自身が目指すべき授業はそういったものかと思う