mixiはムラ社会?

真夜中のインターネット - 第4回 mixiのなぞ
http://www.networkworld.jp/midnight/-/21104.html

via http://d.hatena.ne.jp/mixi_love/20050823/p2

 SNSは、本家米国ではもっとクールに、クレバーに使われているのではないだろうか。人間関係の広がりは大切だが、自分のほうがもっともっと大切だ…という、個人主義意識が根底にあるからだ。翻って日本ではどうなのだろうか。「ソーシャルネットワーク」と言うと響きはよいが、日本の場合は濃厚な「ムラ社会」の人間関係に回帰しているような気がしてならない。

当たらずとも遠からじ、と思うよ。
アメリカ人が個人主義的/日本人が集団主義的という俗流文化論はまちがってるが。
たとえば、見知らぬ相手同士で、囚人のジレンマ実験をしてみると、日本人はアメリカ人より利己的に行動する。
利己的行動=個人主義的行動と考えるなら、日本人はアメリカ人より「個人主義」的傾向をもつ。
この囚人ジレンマ状況に、何らかの相互監視のしくみを導入すると、日本人の利己的行動はおさまって、アメリカ人の水準と変わらなくなる。
つまり、日本人の利己的行動をおさえ、ある種の「公」的なふるまいを可能にしているのは、相互監視の視線――いわゆる「世間の目」――であるわけだ。


この「世間の目」=相互監視のシステムは、規律訓練型の一望監視システム(パノプティコン)とは違う。
そういう抽象化された他者の視線ではなくて、あくまで具体的な顔の見える者どうしの相互監視の視線であるわけだ。
「顔が見える」ということは、関係が固定化されていなくてはならない。
こうした関係の固定性のなかに生きていたのが「ムラ」人たちであるわけだ。


しかし、そこでの固定的な関係は、仕事仲間としての関係(いっしょに田植えや稲刈りを手伝い合う)、ご近所さんとしての関係、家族親族としての関係(大きな「イエ」としての「ムラ」)などが束ねられていた。
ひるがえっては、その関係の多重性――都市社会学でいうmultiplex――こそが*1関係の固定性を支えていた。
しかし、社会の産業化・都市化にともない、関係はほどけだし、一重(uniplex)化し、流動化していく。
そこで現れたのが、直接の利害をともなわない純粋な関係=友人関係だ。
仕事仲間は経済的利害をともにしているし、ご近所さんは政治的利害をともにしている(「選挙区」というものを考えてみればよい)。
家族や親戚だって利害関係のなかにある(遺産相続を考えてみよ)。
友人は、そうした利害から無縁とはいわないまでも、遠い位置にある。


関係の流動化と、関係の純粋化(つながりの社会性の浮上)は、社会関係変化の同じ流れのなかにあるのだ。
「ムラ」社会のなかにない純粋な関係が、mixiのなかの関係を織りなしている。
しかし、そこにあるのはやはり相互監視のシステムであり、それをサポートするアーキテクチャ(「マイミク」とか「足あと」とか)なのだ。


こういう話を、北田さんとの共著本に盛りこもうと、ぽつぽつ書いているところ。
しかし、今日は別の仕事をやらねばならぬ。
いつになったら、共著本はまとまるのか(泣)
すいません、気長に待ってくださいね>北田さま&編集者さま

*1: こうした関係が「多重」にみえるのは、一重(uniplex)の関係を別々の相手ととりもつようになった私たちの目からふり返って眺めたときに現れるものにすぎず、各々の分節された関係が束ねられていたというよりは、未分節な関係のアマルガムがあったと考えたほうがよいだろうが