レポートのコピペ問題

前回書いたエントリを見なおしていたら、自分が「ムダじゃムダじゃ」と叫びまくるジャコウネズミさん(@ムーミン)になったかのような気が。
それはともかく、やはりコピペということ自体は、何ら新しい問題じゃないと思う。
勉強(学習)ってのは本質的にめんどくさい作業であるわけで、手を抜けるなら手を抜きたいって気分はずっと前からあったわけで、そのための手法もいろいろずっと前からあったわけで。
教員のほうだって、できればうまいこと手を抜きたい気分に変わりはなく、だからこそ、古くはン十年一日のごとく、同じ講義ノートを使い続ける教授がいたり、新しくはe-learningとかいう旗印のもと、せっせと手抜きの方法論の開発に励んだりするわけで。


だから私にも、ぶっちゃけ、コピペでも手法をちゃんと工夫してくれればいい、という気はある。
↓これくらいやってくれるとか
「レポート丸うつしを見破る方法」@大学教員の日常・非日常
いや、学部生レベルでレポートを書くという作業は、コピペでなくとも、ここに書かれている作業に限りなく近いわけですよ。


ちなみに、このエントリのある“大学教員の日常・非日常”、他のエントリも延々読みふけってしまいました。
ぉぉ、ご同輩、というか、いずこも同じ、というか、オレの職場は全然マシだな、というか。
「バカな教授」カテゴリなんざ、素晴ら(以下略)

会議でのお願い。
「さぼりたい」「働きたくない」と本音を言ってください。
バカ教授が、オープンキャンパスに出席したくないからって、なんで、会議を長びかせなくちゃいかんのですか。
あんたらは、もう仕事しなくてもいい。
ただ、俺らのジャマはすんな。
こっちはねえ、つぶれる大学に在籍してるから必死なのよ。
あんたらみたいにあと数年で出ていける人とは違うの。
頼むよ、ホントに……。

今回のネタは「大学50年構想」
忘年会で、比較的若い理事長の訓示があり、これからの大学の構想として50年計画をぶちあげたらしいのです。…(略)…。具体的なことを言えませんが、これからの大学がこうなっていきたいという方針としては、健全じゃないかなと。
が、それに対する教授たちの対応が素晴しいんですよ。
「あはは、その頃、わしら大学におらんしなぁ」
「ははは、それに生きてるかどうかもわからんよ」
あつく語る理事長を失笑していたそうです。
自分に関係ないから…
まあ、それはそうなんでしょうけど、公式な場で態度に出すなよ…と。


コピペ問題が、新しげな問題として「図(figure)」化されるのは、「地(ground)」にこういう方々がいらっしゃるからではないかと愚考する次第。


コピペ問題のまとめ(「中間報告。」)は、id:hidex7777:20050901#p1 さんとこに。

ついでに「メールの文頭で名乗りあげる」について

大学教員の日常・非日常(http://blog.livedoor.jp/yahata127/archives/30947439.html)より

が、なぜ、日本でだけ冒頭に名乗りあげがあるのか?というと、もうちょい違う説明がある気がします。
それは、日本人は「何が書いてあるか?」ということよりも「誰が書いたのか?」ということを重視する傾向があるためではないでしょうか?


そういや文化心理学だったかの研究に、日本人は、targetだかfigureの情報より、(back)groundの情報に注目する、ってのがあったような。
何だったけかな。

森健『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』

たまたま自宅近くの本屋で目にとまり、一気に読んだ。
鋭敏な問題意識に貫かれた良書。
あと半年早く出ていれば、ised理研の議論も、もっと「話は早かった」かも。
つうか、倫理研のだれかが書いた本かと思うほど。
こういう問題提起の声は、できるだけ早く大きくしていかないと、と思う。
著者のサイトは http://www.moriken.org/ に。


前回エントリへのcharlieさんのコメント、

なんだかレポートも、楽したいっていうのもあるんだけれど、それ以上に「間違いたくない」から「無駄に考えない」ことを選択しているのかな、というのは、コピペと関係なく感じるところです

に関連して、一部抜粋。

事実、現時点でもすでにリスク回避に根差した行動は、若い世代に特有のものとして指摘される兆候とも合致する。子どもたちや若い世代に共通する自制的かつ自己保身的な振る舞い、私立学校と塾を合わせた過度な受験戦争、自分自身の興味ではなく資格など安定を中心とした実学志向……。従来からある話に思えるが、個別の取材を通して知った者からすれば、その内実はずいぶん異なる。いずれも発想の原点は「リスク回避」であり、それこそが行動を規定するものになっていたのである。子どもが大人の映し鏡といった言を持ち出すまでもなく、そんな兆候を感じ取っているのは私だけではないだろう。
ライアン教授が指摘している問題は、こうした身近な話題と決して離れたものではない。だが、そこにはもうひとつ補助線を引く必要がある。
人間が主体であるはずの電子機器が、その役割上からいつしか立場が逆転し、支配的な立場となって人間を振り回すという奇妙な現象。こうした「技術決定論」はメールや携帯電話が登場する以前から指摘されていることだが、それが監視的な振る舞いにも及んでいることは若い世代の行動からも見てとれる。2004年春にある雑誌の取材で出会った若者たちは、互いの監視を当たり前のものとして考えていた。相手が出たり返信をするまで執拗に電話やメールをする。恋人や夫婦の関係であっても、信頼の担保としてテレビ電話の利用や携帯カメラによる画像の送信を求める。夜遅くなった際には位置情報を携帯電話で知らせる。電話番号が表示されなければ着信拒否……。こうした行動傾向を若い世代は「普通」だと考えていた。けれども、これら監視的行動を「リスク回避」という言葉だけでは説明できない。そこで「不信」という補助線を引いてみる。すると辻褄が合う。そこにある人間関係は、「信用」ではなく「不信」なのだ。不信をベースにリスクを回避するべく、確実に信頼できる証拠を誰もが求めていたである。
注意すべきは、もともと不信がはじめにあったわけではないということだ。技術によって客観的な信用=証拠が生まれ、その反作用として不信が生まれる。そこで生まれた不信から、自身に降りかかるリスクを避けるため、さらなる信用の強化を求める。そして、このサイクルが結果的にさらなるリスクを生み出すことになる。これはまさに、監視化にはリスクの拡大再生産とでも言うべき構造があるというライアン教授の指摘にもつながるものだ。

(p.282-3)


というわけで、このように補助線を引くと、ここここで書いたことはつながるのである。